スナック昭和 第12回 荻野目洋子―なぜいまダンシング・ヒーローか

第12回 荻野目洋子特集(2020年2月12日、ミラティブにて発信)

※注:この記事の内容についての解説は、「スナック昭和 はじめに」をご覧ください

●「スナック昭和」のコンセプト説明

▽ミラティブ始めて、エモモを使ってVTuberの真似事やらかしながら配信してるけども、中身昭和のおっさんでしかない。なら開き直って、昭和のおっさんにしかでけん配信にしたろということで、エモカラで「昭和の曲」専門で、ほぼ毎晩1曲から数曲ずつ唄うとともに、その曲や歌手に関するエピソードも並行して解説するコンテンツ、スナック昭和。
▽そんな昭和のオッサンにとって、体に堪える寒さ、皆様も体調には気を付けてほしい。
▽環境が環境だけに、配信途中で途切れたり、毎晩とはいかん可能性あり、そこはご容赦を。

さて、2年かそこらくらい前に、有線やテレビから突然荻野目洋子の「ダンシング・ヒーロー」が流れてきてビビった、という経験はないだろうか。
私自身、コインランドリーで洗濯してる最中に流れて「だ、ダンシング・ヒーロー!?しかもこれ、荻野目洋子本人!?何で今更!?」とかなりビビったのを昨日のことのように思い出す。
今時、カヴァーソングが流れるのは日常茶飯事だが、これはオリジナル。なぜそれが今日復活したのか、理由を知っている人は意外と少ないのではないか?
順を追って説明すべく、まず荻野目洋子さんの解説からさせて頂く。

荻野目洋子

▽女優・荻野目慶子の妹。
芸能界デビューは早く、劇団ひまわりのオーディションを受けた姉と一緒に合格し、経済的理由から姉のみが劇団に通うこととなったが、1977年の映画「獄門島」で市川崑監督の計らいにより、姉の慶子とともにスクリーンに出る。
翌年、小学生アイドルユニット「ミルク」の「ルミ」として芸能界デビュー。ユニットはその後解散したが、中学2年の時にあだち充原作「みゆき」のアニメバージョンのヒロイン・若松みゆき役に抜擢。他にもしげの秀一原作の映画「バリバリ伝説」のヒロイン・伊藤歩惟役にも選ばれている。
▽歌手としての正式なデビューは1984年。そして1985年、7枚目のシングルである「ダンシング・ヒーロー(Eat you up)」でオリコンTop10入りを果たす。
1986年以降は4年連続で日本レコード大賞の金賞を受賞し、NHK紅白歌合戦には計5回出場してきた。
様々なエピソードを残してきた姉の慶子とは違い、結婚・出産後は育児に専念し、家庭を大切にして芸能界からは少し距離を置いてきた。
その後、2014年の歌手生活30周年を機に本格的に活動を再開。記念ライブ「ディア・ポップシンガー」を赤坂ブリッツで開催した。

平野ノラと大阪府立登美丘高校ダンス部

▽平野ノラは、2010年にお笑い芸人としてデビュー、バブル時代に流行した肩パット入りスーツにロングソバージュと、バブル時代を象徴するスタイルでカリカチュアされた見た目から「バブル時代のかほり」のギャグを次々に繰り出すことで知られるが、2000年代のお笑いブーム時代に「自分は才能がない」と思い、他の仕事をしていたという。そのため、「遅咲き」の芸人であった。
出囃子として、ダンシング・ヒーローを使用していた。

▽そんな平野の芸風を取り入れ、2017年夏、「第10回日本高校ダンス部選手権」に挑んだ高校があった。
大阪府堺市の、大阪府立登美丘(とみおか)高校ダンス部。OBで指導者の振付師・akaneの指導により、プロと言っても過言でない完成度の高いハイクオリティの演技と、大阪ならではのネタのセンスが相俟って、8回・9回と連続優勝を果たしてきた。
三連覇のかかっていた中、決勝は惜しくも同志社香里高校に敗れて準優勝となったが、その演技「バブリーダンス」がYouTubeで累計8575万回再生(2020年2月現在)という驚異的な数字を叩き出し、ネタ元となった平野ノラとのダンスコラボも実現。
これに連動し、「出囃子」およびダンスの音楽として使われていた「ダンシング・ヒーロー」がビルボード・ジャパンで週間2位にまでジャンプアップ、30年以上ぶりにリバイバルヒットを果たす。
その後、中止された御堂筋パレードの後継イベントとして開催されている「御堂筋ランウェイ」2017年度版、2017年日本レコード大賞などで荻野目洋子本人とのコラボパフォーマンスが実現した。
この年、急遽同曲のヴァージョン違い15曲を集めた「ダンシング・ヒーロー・アーカイブス」が発売され、ビルボードジャパンダウンロード最高6位、ストリーミング最高3位を記録している。

セトリ:「ダンシング・ヒーロー(Eat you up)」


失われた30年

▽そもそも、私が「スナック昭和」を始めたのも、この「ダンシング・ヒーロー」のリバイバルに象徴される、バブル時代をはじめとする昭和の時代を見直そうという機運によるもの。
「ダンシング・ヒーロー」発表当時は1985年のプラザ合意によって急激な円高不況となり、厳密にはバブル景気のような好況では全くなかったものの、それまでの経済成長とその1年後からスタートするバブル景気を象徴する歌として認識されるようになった。
「失われた30年」と呼ばれた平成時代。バブル以降、我々が失ったものは何か、思い出さなければならないものは何か、逆に繰り返してはいけないものは何かを探る意味で、その時代時代の写し鏡である歌の分析を続けているし、これからも研究し続けていきたい。


補足:

YouTube「TDC バブリーダンス」の動画再生数は、5月5日現在の時点で、8864万回。一時期ほどの勢いはないものの、まだまだ伸びてます。凄いです。

それはともかく「分析を続けているし、これからも研究し続けていきたい」とか偉そうに御託を垂れてますが、スナック昭和の企画が50回で中断したので、それも頓挫?しちゃってます(苦笑)。というか、今は我々も「さらに失う」フェイズに入ってますからね…

現在、土曜日に週1でやってる後継シリーズ「スナック令和」で、昭和にこだわらず平成期・令和期まで含めて取り扱っていますが、あと3回でソフトバレエとminus(-)をとりあえず完結させなきゃいけないので、そのあとのテーマをどうするか、で「スナック令和」の方向性が決まるような気がします。あてにせずにご期待下さい。

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