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私の成分は

2020.06.07

写真を撮ってもらったら、自分のコンプレックスに執着がなくなって、とっても気持ちが楽になった。私はそういうことを誰かにできるようになりたいな。という話。

「椎名林檎さんになりたい」と常々思っていた。

「なってみたい」人は椎名林檎さん以外にも、同級生の女の子だったり、上級生の男の子だったり、ユーチューブで見る人だったり、たくさんいた。自分と違う人になりたかったうえ、他の人が羨ましかったので、人のことを心の底から凄いと思えなかった。

でも、最近そうではなくなってきた気がする。

きっかけのひとつが、去年の夏、ある記者の方に自分の写真を撮影してもらったことだった。撮影の時、私は気合を入れてみたものの、いざ写真を見てみると自分の顔は思ったよりかわいくなかった。しかし、数日後にもう一度みてみると、なぜか「意外と悪くない」かも、と思った。

以来、自分の顔にあきらめがついた。そうすると必然人と比べなくなったのでその「あきらめ」は大きな希望だった。自分の顔だけでなく、ほかのすべてのことに対しても、それぞれ良くもなければ悪くもなく、それはそれでありだと思えることが増えた。

もしも、私が今とは違う両親から生まれた人間だったら?家の駐車場には白いBMWが3台とまっており、夕食は毎晩焼き肉だったかもしれない。今まで感じたコンプレックス違和感もなかったかもしれない。もっと別の幸福を感じられていたかもしれない。

でも、そうするとその代わりに今感じていることも全部、なかったことになるのだ。それはさびしいことなので、自分のままで楽しめばいい。

こう思わせてくれたのはその記者さんのおかげだ。記者さんだけでなくほかにもたくさんきっかけをくれた方がいた。心から感謝している。



私は自分がしてもらったことを人にもできたらいいな、とも思う。

人の話を書きたい。性別・国籍・年齢などによる説明からは溢れ出てこぼれ落ちてしまいそうな、世界に一つしかないものを見つけて伝えられるようになりたい。誰に言われるでもなく、意味もなく、積み重ねられてきた、人の「成分」から醸し出される何か。

それを伝えることができることができたら、人と人との間にある壁は取っ払われるかもしれない。分かり合えなかった人同士だって、仲良くなれるかもしれない。世界平和だ。「オマエ、変だな」とお互いを笑い飛ばして暮らせたら、どれだけ楽しそうだろうか。



こんなことをわざわざ書いてしまうのは、好きなことを選び続けるのは怖いことだから。自分が幸せに感じることを、自分で選ぶことができるのは、運が良いというだけのこと。私は、この話を聞いてくれるかもしれない、と思う人とかつて出会うことができたから、書くことができるだけ。好きなものを好きと言ったり、一緒にいる人を好きでいたり、うまいご飯はうまいと言ったり、そういうことを、選ぶことができるのは、本当に幸せなことだ。

誤魔化さないで生きたい。



じゃあそのためにどうするのか、もっともっと外に出て、考えなくちゃいけない。

自分語りはここまでにして。次のことをやろう。

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