見出し画像

パトレイバー35周年

ヘッドギア原作のパトレイバーが今年でひっそりと35周年(ひっそりは失礼か)。

映画版の劇パトといえば押井守監督作品だけど、よく知らない人からすれば「ああ攻殻機動隊の押井守の昔の作品ね」くらいのイメージかも知れない。

そして80年代のアニメ映画といえばAKIRAとかカリ城とかトトロとかと言う人が多いと思うのだが、それらよりパトレイバーを筆者は強く推したい。

というか押井守の作品のほとんどはクオリティがやばい。と言うと「ああ押井守信者の人ね」と思われるかも知れないが、筆者は別にそうではない。なんなら高畑勲信者である。

個人的な主観を交えず説明するならば、スピルバーグやジェームズキャメロンが押井守の影響をかなり受け、アヴァロンなんかはSFで最も優れた映画とまで言及したのは勿論のこと、以前Xにて比較したように、たった10年で自主制作からゴジラ、スターウォーズ/ローグワン、そして今年ザ・クリエイターと飛ぶ鳥落とす勢いのギャレスエドワーズすら、押井守を聖典扱いしていることは間違いないと思える。つまり同世代を超え次の世代にまですでに伝播している。

例えば溝口健二や小津安二郎、吉田喜重、三池崇史、北野武なんかは海外の監督からよくリスペクトの声を聞くが、実際にこれだけ参照元になっているという意味では押井守はすでに黒澤明と同レベルに足をかけているのではないのかと思えたりする。(言い過ぎだと思う人は30年後にまた話し合おうか)

前置きはこれくらいにしてまずは劇パト1について書いていきたい。

エスタブリッシュメントへの不安

いきなり何すか?と思われるかもしれない。このワードは実は押井守の作品の全てを包括的に捉えた私なりの視点である。

一般的に押井守といえば頭良くて博識なミリオタとイメージされているかも知れないが、私はむしろそうした点よりも彼の初期からの作品においてより特徴づけているのは、エスタブリッシュメント、つまりあらゆる秩序だったものへの強烈な不安、疑い、恐怖、怒り、という負の感情が彼の最大の特徴だと捉えている。

我々が普段当たり前に接している日常や生活、歴史認識、そうしたものは目に見えない部分ではとてつもなく狂っていて、取り返しがつかないほど壊れてしまっているのではないか、こういう疑念が押井守の取り憑いている。

お勉強が好きな人々はこれを「実存主義的な不安」と呼ぶかも知れない。
また実存主義から発生した超越的自我(つまり、人間の存在の究極的な本質は無でしかなく、行動によって自分で自分を毎日作り出していく以外に実存などない)という姿勢は、まさにゴーストという人間の本質を追い、行動する事でしかそれに立ち向かうことは出来ないと述べる草薙素子の思想そのものである。

まあいいや、私のように学のない人間がそんな話をしても仕方ない。

要するに上のようなエスタブリッシュメントへの懐疑心と言うのは押井作品全ての中心の位置を占めている。

この劇パト1でも勿論そうである。

東京都市計画というエスタブリッシュメント

劇パト1のテーマが高度経済成長で急激に都市化していく東京と、その再開発で立ち退きを余儀なくされた人々の社会に抹殺された憎悪を描いていることは、35年経ってるからもう説明しない。

東京の都市計画というのはもともと明治の後藤新平が、皇居を中心とした環状型の都市という素案を作り出した。

後藤新平は占領下の台湾や、満州の都市機能の基礎を手がけた人物で、南満州鉄道の初代総裁である。今馴染み深い明治通りとか靖国通りなんかも彼が作ったと言ってもいい。超大物である。

彼の考えた東京は、関東大震災後の復興、そして太平洋戦争での復興でも予算が足りずに実現できず、ようやく1964年オリンピックを期に動き出した。

連続立体交差道路と呼ばれる首都高速は、世界にも珍しい未来型の都市の姿だとお褒めになる建築家はたくさん世にいらっしゃる。

しかし押井守はこうしたエスタブリッシュメントを正直嫌っていたと思う。

1964年の再開発の象徴である日本橋を彼はテロリストに爆破させている。こんな醜いものは壊した方がいいと内心思ったのだと思う。

震災前の日本橋の写真を見てみよう。

むちゃくちゃ美しいじゃねーか!
次に今の日本橋を見てみよう。

なんだよこれ…。マインクラフト初心者かよ…。

日本橋といえば、五街道の起点である。つまり、日本のすべての道はここから始まる場所なのであるが、これのどこがそんなに良いんだよという素朴な感覚がホバエイイチの怒りな訳である。

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?