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私はなぜ路線バスの運転手になったのか

 『論語』の子罕篇に、以下のような文章があります。
 [白文]達巷党人曰、大哉孔子、博学而無所成名、子聞之、謂門弟子曰、吾何執、執御乎、執射乎、吾執御乎。
 [書き下し文]達巷党(たっこうとう)の人曰く、大(だい)なるかな孔子、博く学びて名を成す所なしと。子、これを聞き、門弟子に謂いて曰く、吾何をか執らん(とらん)、御(ぎょ)を執らんか、射(しゃ)を執らんか、吾は御を執らん。
 [口語訳]達巷(たっこう)村の人が言った。『偉大な御方だな、孔子様は。幅広く学問をされているのに、ひとつの分野で立身出世をしないのだから。』これを先生が聞いて、門弟たちにおっしゃった。『さて、私は何を専門にするかな?御者になろうか、それとも、射手になろうか。私は御者になろう。』

 論語という書物は孔子やその弟子、周辺者の会話を格言調に編纂したものです。解釈は学派により様々で、同じ本とは思えないほど違った受け止め方がされています。読み手に都合よく解釈することを許された古典、私はそういう風に感じています。
 孔子は、孔子存命当時からさかのぼってみても、500年から1000年以上も昔になる古代の聖王をモデルにした、哲人政治の研究者でした。当人も人徳に優れた君子でしたが、あまりに理想主義に過ぎた考えは、春秋時代という戦乱の時代には迂遠な思想として、各国の君主には採用されなかったのです。
 そんな道徳政治家の孔子は、流浪の生活を続けながら3000人とも言われる弟子の育成と、礼楽文献の整理・編纂で生涯を終えたと言われています。
 さて、そんな孔子が職業選択の冗談を言ったとされるのが、上記の『論語』子罕篇の言葉でした。その中で、弓を射る人と馬車を操縦する人が候補に挙がり、孔子は馬車の御者を選ぼうかと言ったとされています。それは、孔子の反戦平和の思想から来ているのだとされています。
 弓矢は狩猟であれ戦闘であれ、生き物を射殺すための武器です。人や荷物を運ぶためだけの馬車とは、製品自体の製造目的がそもそも違うものです。道徳思想の権威であり、行儀作法の先生であった孔子らしい選択であったと言えるでしょう。
 趣味を風刺する諺にも、「釣りに殺生の業あり、将棋に争いの心あり」と言います。高尚な趣味とされる、釣りと将棋にも生き物を殺す行為や、他人と争う心が存在するのでよろしくないということでしょうか。
 あまりにも神経質な考え方ではないかという、そんな言葉も聞こえて来そうですが、物事を深く考える時の慎重な在り方が存在している様にも思うのです。

 前置きが少し長くなってしまいましたが、私がバスの運転手という仕事を選んだ時に思い起こしたのが、この論語の言葉でした。
 御者というのは現代風に言い換えれば、まさに運転手です。
 現代には様々な仕事があります。百花繚乱、職のデパートというのが現代社会かも知れません。
 それでも、大きく分けて考えれば総合職と専門職の二種類しか存在しません。古い言い方をすれば、事務員さんと現場さん。ゼネラリストとスペシャリストのほうが、通りがいいかもしれません。
 私は、スペシャリストの道を選びました。若い頃にはバイクが趣味で、日本各地をツーリングで散策した経験もありました。
 運転をすることが好きなんだから、好きなことで出来る仕事がしたい、そんな安易とも思われる動機が出発点でした。
 地元の新聞にバスの養成運転者の募集広告が載っていました。
 大型二種免許の取得費用を会社負担で、日当をいただきながら教習所に行かせてもらえるというのです。
 早速、履歴書をバス会社に送付しました。履歴書が到着すると、即日面接に呼ばれ即採用となったのです。人手不足って有り難いですね。
 免許取得後は社内研修を2ヶ月受け、みっちり路線バス運転手としての心構えを指導していただき、社内の運転手試験を合格して路線デビューしました。
 配属先の営業所でも2ヶ月の実車研修を修了し、一人立ちして約5年になります。

 孔子様が選ぼうかと言ったくらいの仕事ですから、後ろ暗いことは一切ありません。詐欺まがいの営業なんて存在しませんし、ノルマも存在しません。運転自体が好きなので、飽きるということもありません。自分にとって最高の選択ができたと思っています。
 お客様が降車される時に、お金を払いながら「ありがとう。」と言ってくださる、数少ない職業かもしれません。ちなみに、私の会社のバスは後ろドアから乗車して、前ドアから降車するシステムになっています。
 バス停や回転場には多くのお客様が待ってくださっています。
 通常、バスは常に満員で立ち乗りも発生しています。
 車内事故など起こさぬよう、運転には細心の注意が必要ですが、そこがまたスペシャリストの醍醐味ということで、運転技術の向上に心掛ける日々です。
 一時期は、バスの需要不足が深刻化していましたが、少子高齢化に若者のマイカー離れと、業界には追い風が吹きまくっています。
 自治体からの補助金が出て、バスもどんどん新車に更新されています。お客様は大抵、福祉の無料券を利用される方と通勤・通学定期券の方ですね。現金払いは少ないです。カード系は使用できないのであしからずって感じですが。。。
 田舎暮らしでバス運転手、まさに天国ですよ。
 コロナ禍で高速バスや観光バスは倒産の憂き目に遭った会社もあるとか。
 ぜひ、路線バス運転手の道を選択してみてください。
 人生が大らかで明るく、前向きなものへと変化するかもしれません。 


 





“#この仕事を選んだわけ”


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