人は必要な時に必要な人と出逢う
人生のなかで節目節目に思い出す、私にとって大切な栞のような言葉。
いつまでもサヨナラには強くなれないけれど
人との出会いと別れを繰り返す中でいつもこの言葉を思い出しては、締め付けられそうな心が少し解けてあたたかくなる。
これは、乃木坂46の1期生として5年半活動した彼女のラストメッセージ。
読書家で、博識で、外見だけではなく人間としての内側からの美しさに惹かれた。彼女の考え方や放った言葉に今でも救われている。
アイドルになった目的は弟の学費を稼ぐためで、その目的を果たしたことから引退を決めた彼女。
「アイドルをやればやるほど、自分には向いてないと思う」と言っていた。
どんな場面でも、誰に対しても常に対象の本質を見抜こうとする洗練された軸をもっていた気がする。
彼女の最後のラジオの中で、もうひとつ印象的な言葉がある。
「後悔する前提で喋ってるな、私(笑) なるべく後悔しないほうがいいけどね。でもいろんなことが起きるじゃないですか、人生は。そういう時に、辛い時にね、ぜひ思い出してください」
と言った。
2016年11月9日に、彼女のラストシングルとしてセンター曲『サヨナラの意味』がリリースされた。
その頃私は新卒1年目として働き、宿泊勤務込みの20連勤をしていた。長時間労働やパワハラ。様々なことが重なり、どうしても死にたい、死にたいというか消えてなくなりたかった。
まだこの言葉に出会ってなかったけれど、彼女の存在に救われて生き延びた。
これらの言葉を見つけたのは、がむしゃらに働いて心身ともに疲弊しきって療養した、精神科の閉鎖病棟から退院したあと。彼女の卒業日には閉鎖病棟にいて、テレビも見られず思いを馳せていた。
その翌日のバースデーライブ(乃木坂5周年ライブ)に当たっていたのだが、チケットを取ってくれた友人の同伴者となっていたことと、当時は同伴者の氏名電話番号登録などの厳重なチェックは行われてなかったおかげで他の子にライブに行ってもらうことができた。
スマホの使用ができなかったため、親にその友人に連絡してもらった。
今思うと、そのライブがきっかけで急遽行ってもらった子が乃木坂にハマってくれたのはとても嬉しかった。
閉鎖病棟には約1ヶ月、開放病棟に約3ヶ月。
4ヶ月ほどの入院生活が終わると、久しぶりに自分のスマホを手渡されたけれど、入院の間ずっと使用できなかったので電話料金やサブスクなどの全てのものが停止されていた。LINEも写真も全て、入院前日の日から止まったまま。
当時付き合っていた人とは疎遠になり、入院中は病院食だけが唯一の生き甲斐だったのでいつも一番多い量を頼んで10kgも太った。閉鎖病棟では外(院内の庭にさえ)も出られず、牢屋に閉じ込められたような地獄の日々。手首と腰がベルトで固定される。こんな所まで落ちて、この先の未来なんてあるのだろうか。23歳。周りの人は、20代前半の良い時期を過ごしているだろうに。社会に出て、お金を好きなように使えるようになって自由を感じ始める頃なんだろうな。私は何してるんだろう、人生詰んだ。
その間連絡を取れていなかった人の中で、もしかしたら私が自殺してしまったと考えた人も少なくはないのかもしれない。
こうして生きてると、
「あの時諦めて人生終わらせないでよかった」
と思う瞬間が何度もある。
忙しない日々を過ごしてるとあんまり考える余裕もないけれど、意識して余白を心がけるとき、安堵感、幸せを感じる瞬間によく思う。
あの頃幾度となく生まれた後悔も、時間をかけて晴らすことができた。
体重も少しは元に戻ったし、心身ともに疲弊しておかしくなってしまった当時の私から離れて行った人間関係も、また別のご縁と繋がり新たな人生の中で広がっていった。社会復帰の途中で最高の人生のパートナーを見つけられて、結婚もできた。
二次的に出ることになりそうだった身体障害もなんとか食い止められた。
入院中大量に服薬された精神薬のせいでジストニア症状というものが出て、意識してなくても芸人のおばたのおにいさんの『まーきのっ』のネタのようにずっと首が曲がるようになってしまった時がある。(痙性斜頸という)
転院を繰り返し必要最低限の服薬にたどり着けたけれど、もしその症状がおさまっていなかったら。頭蓋骨に穴を開けて電極を埋め込む手術をし、それで一生過ごさなければならなかった。
しかし閉鎖病棟の過度な入院生活により、そのような生活を強いられている人はきっとたくさんいる。
また別の投稿で、大量服薬のことや入院時の経験を、日本弁護士連合会の方々が詳しく話を聞いてくれた時の話を書きたいと思います。
強制入院制度の廃止に向けた国際的な動向は進んでいます。
気になる方はこちらを読んでね
彼女が言っていたように『生きてさえいれば』
なんとかなるもんだな。と強く実感しています
生き延びることができて本当によかったなって。
今後の人生であの牢獄を忘れることはないけれど、
歳を重ねるとともに記憶が薄れてきた。
薄れてきたと同時に、またあの時みたいなことにならないよう戒められている。
人との出会いに、もっと早く出会っていればと悔やんだりして打ちひしがれている時も「今出会ったことに意味があって、ちょうどよかったんだな」と思えるようになった。
7年近く経ってようやく当時の出来事を俯瞰的に見れるようになり、こうして自分が必死に生きた証として書き記しておけるようになったのも、彼女が私を生かしてくれた並々ならぬ想いがあるから。
彼女も5年半のアイドル活動中に、きっと様々な思いを抱えてきたと思う。
たくさんの喜ばしく輝かしい景色も見てきたかも知れないけど、嬉しいことや楽しいことだけではなく、悲しいことや腹立たしいこと、予期せぬこと、あらゆる感情を経験してきたと思う。
そんな中で、最後の卒業コンサートで語ったこと。
喜怒哀楽の怒・哀の感情を、過ぎ去ったあとには【これでよかったこと】と捉えることを教えてもらった。
たしかに私の入院前後の苦労は、しばらくトラウマで簡単には思い返すことのできない出来事だった。私のせいで、母も苦しんだ。今では『私のせい』ではなく『病気のせい』だったね、と母も捉えてくれるくらい関係は良好になった。
これまでの経験があったおかげで今がある。障害がまだわからずにグレーで何とかやり過ごせていた10代、特性を理解してもらえず家庭生活で苦しんできたこともきっと無駄じゃない。いつか増える自分の家族が同じように悩みを抱えていたら、寄り添えられる知識もついた。最大の理解者である夫もいる中での新しい自分の家庭ができて、安心できる居心地の良い本当の自分の居場所も見つかった。
これまでの経験をバネに、這い上がった努力がある。
人の痛みがわかるようになって本当によかったと思う。
奈々未さん
本当にありがとう。
ずっとずっと、私はあなたに救われています。
今はもう一般人だから、一人の女性としての幸せを願うばかりです。
でも、同じ日本に住んでいるわけだし(日本に住んでいるかはわからないけれど) もしいつか、ばったり地球上のどこかで会えたら必ずお礼を言いたいし
願わくはこの文章が彼女の元まで届いたらいいなぁ
なんて
大切な想いを胸に、彼女のように感謝と思いやりを忘れず強くしなやかに生きていたい。
元乃木坂46の橋本奈々未さんから一人の女の子が救われたお話でした。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
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