アゴラみたいな私の友達


背中の真ん中くらいまでしか届かない手を、藁を掴む時くらい伸ばして。

そのあと、後ろの襟を合わせて、左手でつかみ上げる。上から右手を背中に下ろして、人差し指と親指でつまむ。


薄暗い部屋に隅々まで広がった静寂を、じっ、じっ、じ、という音が噛んでいく。どんどん上がりづらくなっていくのはそのせいだと気付いて、指の先に脱力感が広がる。そっちの方が上手く上がったり。




じ、じ、じ、


自分の体から1番遠い部分を少しずつ削ってロボットに手渡すようになった私たちが、その欠片を手放していいものと手放してはいけないもので分けないといけなくなったように、動くことから解放されると、考えることが増えていく。




じ、じ、じ。



私の好きな私が生きている音が、私の無機質な私を生かす部屋に響いて、消えていった。




全てのことに正解があるように振る舞う世の中で、測れないものを探している。


誰かのための自分、自分のための自分、私のためのあなた。あなたのためのあなた。考え続ける私たちの端っこをちょっとずつ食べて大きくなったロボットに聞けば、全部の正解を教えてくれる。



生きやすい。生きやすい。

でも、私の端っこはどこにいったの。



自分の端っこを探すため、季節の波を閉じられた背中で受け止めている。



冬の空を見上げた時、オリオン座だけに目を奪われないように。

満開の桜の下には死体が埋まっていると、怖がることができるように。

夏の海に意味なんてないから、歩く肌色に小麦なんて意味のある言葉を当てはめないように。

秋には子供を産まないように。


それでもきっと、流されて、流されて、


言わずとも知れているけどその先は居心地が良くて、そのうち水族館に浮かぶ無数のクラゲを、とても綺麗だと言えるようになるんだろうね。




だからせめて、西向きのワンルームで、年に二回くらいしか出番のない服の背中のファスナーを、独りぼっちで上まで上げられるような私で。



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