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キャメル色のランドセルを彼女に。

彼女は2月の誕生日で6歳になる。
4月からは小学生、地域の支援学校へ通う。

学校用に作っている車椅子に、ランドセルをかけて登校する。
ペーパードライバーの私が、福祉車両のノアで送迎する予定。運転に自信なさすぎて“予定”としか書けない。


生まれた時にすでに決まっていること、誰しも死ぬ。一日生きれば、一日死ぬ日に近づく。
終わりが来ることは分かっているのに、死を他人事だと思ってる人も多い。
私もその一人だった。

同様に、子ども用車椅子があることも知らなかった。バリアフリーでもないマンションや戸建てに、肢体不自由、医療ケアが必要な子たちが生活していることも知らなかった。

そして、

とても幸せに生きていることも知らなかった。

登場人物の彼女は私の愛娘、そして私は彼女の母。私目線で書く内容は、彼女の意思と異なることもあるかもしれない。彼女の人権を大切にしつつ、感情の線引きの意味も込めて、娘のことを“彼女”と記す。

彼女の話を誰かにすると、しんみりした気まずい雰囲気になる。

そんな時は
「人生、何が起こるか分からないですね。」
と決まって私は言う。

会話を終わらせたい意図もあるし、そんな可哀想な目で見ないで、という意思表示かもしれない。
この暗い沈黙と上辺を撫でる“大変ですね”はもう何百回もいただきました。
今の私には間に合ってるので、けっこうです。

歩き始めたばかりの可愛すぎる彼女は、1歳3ヶ月で大病に襲われた。

朝方、微熱があり保育園はお休み。近所の小児科を受診し、一応の薬を処方してもらう。
熱のせいか機嫌は悪いが、昨日と何も変わらない愛らしい彼女。
抱っこしても泣き止まず、疲れ果てて眠りについてしまった。私も隣で一緒に眠る。

この添い寝が、結果として彼女の命を救うことになる。
母の勘ならぬ、この私のファインプレーを、今でも自分で褒めている。
人生は、小さな奇跡の積み重ねで出来ているんだと実感する。

病院に搬送された日、彼女に会うことは出来なかった。担当医も口だけ笑っていて、目は笑っていなかった。「今日を超えられれば…」
付き添い者は、帰宅するように促された。
緊急時に連絡をもらえる私の携帯電話をずっと握りしめていた。

翌日、彼女に会うことが出来た。
ICUで人工呼吸器を挿管され、命を繋ぐ多数の管が、小さな身体を埋め尽くしていた。看護師が彼女の分泌物を吸引すると、赤い血が混ざってるのが、ハッキリと見えた。
「…なんの血?」違和感を覚える。外傷的なものは全く無い。

数日後、命の危機を脱すると

呼吸が出来ること、
排尿が出来ること、
あくびが出来ること、
くしゃみが出来ること、

それだけで、彼女を取り囲んでいる医師と看護師は大いに喜んでいた。


「え?そんなこと出来て当たり前ですよね?」

私はまだ、彼女の身体の状態を理解していなかった。一命は取り留めたものの、昨日とは全く違う身体になっていた。


(この数日間の記憶を呼び起こす作業は、私にとってとても辛い作業です。物理的な事実を思い出すだけで精一杯、時間経過や感情については書けません、お許しください。)

「健康に生まれても、そんな病気になることあるんだね」とメッセージを送ってきた知人のLINEアカウントをブロックした。
同時に、私は今までの人生をブロックした。それは自分自身とも。

私はどうやら、心なのか、脳なのか、病んでしまったらしい。

今思い返せば、
自分が壊れないために自己防衛機能がフル回転して、“あなたは病んでます。”というレッテルを貼って、自分を守ったんだと思う。

そして病の相手は、
誰かが作った“当たり前”を幸せだと信じ切っている私の先入観だった。

彼女が病気になって、
私の心を埋め尽くしていたこと

いつ死のう、いつ消えよう、
彼女は保育園に行けなくなった、
彼女は七五三ができなくなった、
彼女は通うはずの小学校に行けなくなった、
彼女のランドセルを買う必要がなくなった、
彼女は幸せに生きることが出来なくなった、
そして私も
幸せに生きていくことが出来なくなった。

この先入観に私は取り憑かれていた。

今日の私、

大好きな彼女の隣で、とても幸せに生きている。多分、彼女も幸せだと思う。いや、絶対幸せ。これも母親の勘。

残念なことに、彼女の喃語を読み解くは出来ないので、はっきりとした言葉で、“幸せだー”と聞いたことはない。いつかアレクサが彼女の言葉を解析して、私にもわかる言葉に変換してくれると思う。“幸せニャー”って言ってるかも。

病の克服方法は、考える方向を変えること。
不幸へ向いていた矢印を、くるっと幸せの方へ回す。
出来ないことしか思い付かない矢印を、シュシュっと出来ることしか見ない矢印にする。

先入観から解き放たれると、
彼女が死ぬかもしれなかったあの日は、
彼女が頑張って生きてくれた日になった。

そして、
彼女がどう生きるのか、私がどう生きるのかを毎日考えている。


七五三は
4歳の時にピンクのワンピースを着て、車椅子に乗り、氏神様に会いに行った。

保育園は
5歳の時に、地域交流と一時預かりを利用して素敵な保育園に通うことが出来ている。

通うはずの小学校は
自宅から遠いので結局行かないことになった。副籍を利用して、支援学校に一番近い小学校へ行く予定。従兄弟と同じ小学校へ行く。

ランドセルは
キャメル色のランドセルを買った。
車椅子にかけても開けやすいようにハーフカバーのとびきりオシャレなやつ。
ランドセル選びをしている時、とても幸せでワクワクした。こんな幸せあるんだ、親になる幸せってこうゆうことなのかな。と、
彼女に親にしてもらってること、彼女のおかげで私が生かされていることに気付いた。

買うことが出来ないと思い込んでいたランドセルを買う。
こんな簡単なことを諦めて、死にたくなる病にかかっていた私。
あの時は頑張ってたね!って笑いながら自分を褒める。

どう生きるかは、どう死んでいくのかと全く同じこと。
どう死にたいか、この言葉は決してネガティブではない。終わりから逆算して、その間にどう生きるかを考えること。

私は彼女に依存し過ぎて、彼女の人生の重荷にならないよう、自立を目指す。noteもその一つ。

そして、
彼女と一緒に桜が咲く頃、新入生になる。
通信制大学に入学する人生設計を立てた。

彼女にはランドセル。
私にはペンタブを、夫に買ってもらう。

おまけ
彼女の大病をきっかけに、死に方を選べることを知った。
子供や兄弟に頼らず、自宅で最後を迎える選択もある。
母には、“どう死にたいか”元気なうちに考えたほうがいいと伝えている。
誰かのために選択するのではなく、自分がどうしたいのか、どう最後を迎えたいのか、私たち娘に残して欲しいと。

骨は海に撒いて欲しい、とはよく言っている今日この頃。


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