きれいごとをあきらめない

ただ学生時代の友達と4人で飲んで帰っただけの、一見何の変哲も無い金曜日の夜。何だかとても幸せな気持ちだ。
何かを成し遂げたわけでも無いのにやたらと幸せなこういう夜が年に一度くらいやってくる。

なんでこんなに幸せなんだろうと考えてみると、こんな夜はだいたい幸せを感じる心に、影が差していない気がする。

普段の自分は大変矮小で卑屈な人間なので、周りの目を必要以上に気にしたり周囲と自分を比較したりして、勝手にダメージを受けている。
そのため何か成し遂げたり結果を出したりした時も、
「ほれ見たことか!」とか「ざまあみろ」とか「おれの方が正しかったじゃん」みたいな
必要以上の自尊心が頭をもたげてくる。

ただ自尊心とか、それ以外にも打算とか猜疑心とか、
そういうものが少しでも頭をもたげてくると、
幸せを感じるまっさらな心に影が差すイメージがある。
だからどんなに満足できる結果や成果だとしても、純粋な気持ちで幸せを受け取りきれず、こぼれ落ちた幸せは感じることができないままだ。

対して今日はただただ友達と楽しく喋って飲んだだけの夜。
こんな何でもない小さな幸せをちょっとずつ感じて生きていけたらといいなあ、という気持ちに満たされている。
この時自分の中から珍しく煩悩は消え去っており、心に影は差さず、 100の幸せを受け取っている。
しかも普段矮小な分、煩悩がない清らかな自分を好きでいられるのだ。
この瞬間、自分は一番大きな幸せを感じている。


ここまでを踏まえると、自分が一番幸せを多く感じられるようにするにはどうすればいいか?答えは一つ。
心に影が差さないように、とにかく清らかに生きることである。

大人になると酸いも甘いも経験して、純粋な気持ちだけで生きていくというのは難しくなる。
誰かの純粋な気持ちだけでは事はうまく運ばず、「根回ししないとダメだよ」「もう少し波風立てないやり方あるでしょ」と言われるのが関の山。
「きれいごとだけじゃやっていけない」が大人の世界の常。
「きれいごと」ばかりを言わない、世の複雑さが見えているスタンスこそが大人なのだ。「きれいごと」は子供だけが掲げるフィクションの世界のものだ。

しかし「きれいごとだけじゃやっていけない」なんて誰が決めたのだろうか?
ひょっとすると、誰も決めていなければ実証もしていないのではないか?
だとしたらなぜ諦めなければならないのか?
幸せになるために「きれいごと」を貫いて生きたっていいんじゃないか?

私はとにかく幸せになりたい。笑顔でいたい。
このえも言われぬ幸せを感じると、少しでも長い時間この気持ちを味わいたくなるのだ。
今は損得勘定ゼロで接することができる友人たちとの時間の後しか味わえない気持ちだけど、もっと増やして行きたい。
だったら普段から煩悩を捨て去って清らかに生きればいいんじゃないか?
しかも自分のことも好きでいられる。これを逃す手はないよな。

やっぱり、とにかく清らかに、まっすぐに、お天道様に恥ずかしくないように生きよう。
世間知らずだとか子供だとか罵られても構わない。
大人の影が差す大きな成功を得るよりも、小さいまっさらな幸せを清らかに積み重ねたいのだ。

「きれいごと」を貫くことを諦めない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?