哲学を手にする

「自分でつかんだ答えなら、一生忘れない。」
                     -漫画『アオアシ』 小林勇吾

これは私が大好きな漫画『アオアシ』内のセリフであり、非常に大切にしている人生哲学である。
この哲学を手にしたのは、当然アオアシの該当話を読んだ時なのであるが、同哲学のような内容に関してはかつてから思っていた節はあった。

かつて私はいわゆる自己啓発本の類のものが嫌いであり、その理由は「自分の人生で大事なことなんて自分で経験しないと決められないだろ」というものだった。親にも自分の手で真実を切り拓いてほしいという願いを込めて名前をつけられたくらいで、とにかく自分で経験したこと、感じたことを人生に反映する、ということには思春期の頃からとても重きを置いて生きてきた。この思考が冒頭のセリフの種となるものだ。

ところが皮肉なことに、
これの裏付けとなる言語を、私は「漫画を読む」という受動的な行為で獲得したのである。

該当話を読んだ時に、「そうだ!こういうことなんだよ!」と興奮を覚えた。セリフそのものの表現はそこまで特異なものではないが、自分には金言のように思えた。
自分の頭の中のぼやーっとしたもやのような考えが、このセリフに出会った時に一つの形となり、しっかりと「大切だ」と思えた。これを胸に刻んで生きていこう、と思えた。


この人生哲学を「一生忘れない」と思えた。


ここで一つ疑問が浮かぶ。
なぜ外から受動的に獲得したものなのに「一生忘れない」と思えたのだろうか?
これを紐解くのがこの記事の趣旨である。

まずそもそも、哲学というのは漠然としたものであってはならず、言語として形にして表現したときにはじめ哲学になると思っている。そうしないと、規範として行動に反映させることが時としてできなくなってしまうからだ。
そしてその言語は、自ら考え出せればいいのだが、「形として覚えやすいキャッチーなものでなければならない」という制約があるからにして、なかなか自分の頭で「これだ!」と思える表現には出会えないことが多い。

そこで時に助け舟をくれるのが、漫画や音楽、小説に映画といった創作物、そして哲学書や名言集、自己啓発本である。受け手の印象に残りやすいように、そこには洗練されたキャッチーなフレーズが溢れている。特に、これは私個人の感覚だが、「キャッチーで覚えやすい」と思える表現は、圧倒的に外から得るものに対して感じることが多い。

そうして外から得た言語は自分の脳内にある漠然とした「哲学予備軍」と結びつき、形として表現された「哲学」へと昇華する。

ここでようやくさっきの疑問を解いていこう。
ポイントは「外から受動的に獲得したもの」が「自分でつかんだ答え」と相反するのか?という点である。

ここまで書いて来た哲学への昇華のステップは、当然外からの言語の獲得が不可欠である。
しかしそこには同時に、「哲学予備軍」の存在も絶対に必要である。「哲学予備軍」が脳内にいなければ、その言語に真の魅力を感じることはできない。もし上辺で良いなと思っても、きっとすぐに忘れてしまうだろう。
つまり、「哲学予備軍」を外からの言語と結びつけるという行為が、「自分でつかむ」ということにあたると考えるのである。
「哲学予備軍」を形と表現する時にぴったりなのはどんな言語か、それを考え、見つけること自体が非常に難しいステップなのだ。だからこそ、見つけた時には「一生忘れない」と思えるのである。

この思考にたどり着いた時に私はようやく、自己啓発本や哲学書が持つ本当の意味に気づけたのである。
結局哲学を手にするには経験が必要、上のような本が与えてくれるのは最後の結びつきの「きっかけ」に過ぎないのだ。ただその「きっかけ」はやはり外からのフレーズに頼らないとなかなか手にすることができない。


これからは哲学を得て生きていくことを信条にしているものとして、やはりキャッチーなフレーズを生み出す側になっていかなければならないと思っている。
自分に哲学への助け舟をくれた先人たちからの恩を、次の世代にバトンとして繋いでいくのだ。

そのための修行期間として、今はとにかく考えて、言葉を形にする。
それを繰り返すのみである。

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