「青春はどどめ色」がJ-POPの転換点となる

先日の関ジャムでも無双していた藤井風。
間違いなく今後のミュージックシーンを創っていくスーパーアーティストだと思う。まーじでカッコいい。

記事タイトルにあるのは、その藤井風が昨年末に発表した新曲「青春病」の一節である。
この歌詞を見て「時代を創っていくというのはこういうことか」と大変に衝撃を受けたので、記録として感じたことを記事に残しておこうと思う。
(※ちなみにこの記事内の「J-POP」という言葉は、「日本の大衆音楽」という広めな意味合いで使っています。)

J-POPの美学とは?

まずこの考察に至る背景として私自身の音楽観を少し説明すると、小中高ととにかくJ-POPを聞きまくり、大学で洋邦オールジャンルのコピーバンドサークルに入ってもJ-POP主義を貫き続けた人間である。
音楽という玄人化推進力が強い分野に熱中しながら、なぜかずっと素人みたいな趣味。
ただそれくらいJ-POPをたくさん聴き過ぎた分、J-POPの美学というものは人一倍感じ取れていると自負している。
「歌詞のスタイリッシュさ」「コード進行の美しさ」「アレンジの丁寧さ」…これぞJ-POPという良さをたくさん享受し、言語化してきた。
しかし裏を返すと、その身勝手な美学からのズレに対して、必要以上に違和感を覚える凝り固まった感覚になってしまっていた。

最初の衝撃

そんな私が真正面から違和感を食らった曲が、2019年11月公開の藤井風の楽曲「何なんw」である。
周囲の友人やバンドメンバーがめちゃくちゃ推していて知ったのだが、私の第一印象は「楽曲名に草生えてんのはキツくない…?」だった。
J-POP美学が強すぎる身としては、「口語すぎる表現を使うのは美しくない」という感覚が強くある。その抵抗感をまんまと引き出すようなタイトルだったのだ。

しかしみなさんご存知の通り、この楽曲は瞬く間に日本を駆け巡り、藤井風は新たな音楽界のスターとなった。「何なんw」はめちゃくちゃ大衆に受け入れられたのである。
もちろん大多数の人にはそもそも抵抗感のないタイトルだったという見立てもあるかもしれないが、果たしてこれは誰が出しても同様に受け入れられたのだろうか?

なぜ「何なんw」がオシャレなのか?

例えばアイドルグループが「何なんw」というタイトルの曲をリリースしたらどうだろう。

AKB48「何なんw」
ももいろクローバーZ「何なんw」

…アイドルらしく印象先行で奇を衒ってるなと感じたのではないか?
実際でんぱ組.incの「くちづけキボンヌ」やNMB48の「ワロタピーポー」など、やはり楽曲の芸術性よりもキャッチーさが重要視されるアイドル市場ならではの発想のように思えるし、「アイドルソングっぽい曲名だな〜」と感じる方が多いと思う。

しかし今や「何なんw」にアイドルソングっぽいなどという印象を持っている人はいないだろう。
その楽曲の音楽性や、藤井風の人間性、ビジュアルから「逆におしゃれ」という印象に変わっているのではないだろうか?

つまり「何なんw」がおしゃれなタイトルとして受け入れられたのは、「藤井風のあの楽曲のタイトルだったから」という要因が強いと思うのだ。
藤井風だからこそ切り拓くことができた、新しい価値観なのだろう。


その後も「もうええわ」や「調子のっちゃって」など、J-POPの常識の壁をドンドン壊して穴を掘っていくようなタイトルの曲が公開されていく。
独自の変な美学で凝り固まっていた私の感覚さえも、そのスタイリッシュさえゆえだろうか。美学が崩れていくことを受け入れ、藤井風をどんどん好きになっていった。

そして昨年末公開された「青春病」のキラーフレーズが
青春はどどめ色
私はこの歌詞も「めっちゃかっこいいな、すげー!」と感じた。

ただ一拍おいてその感覚に、とてつもなく大きな衝撃を受けたのである。

「どどめ色」はダサいはず

まず、私のこれまでのJ-POP美学からすると、「どどめ色」という言葉は「歌詞には使ってはいけない言葉」に完全に分類されるということに気づいたのだ。
J-POPには「〜色」という表現がたくさん登場するが、目立たないがおしゃれに感じる色や、なんとなく想像が浮かぶ造語の色など一定の感覚での「美しさ」をルールにその表現は成長してきたと思う。
(「春色の汽車に乗って」とか「映画色の街」とか、松本隆先生の影響が業界全体に及んでいるものと認識している。)

ただ、「どどめ色」はその音の響きも手伝ってかその感覚とは真逆にある、「おしゃれさを感じない色名」の代表格だと思ってきた。
なんなら「こんなJ-POP絶対に売れない、どんなJ-POP?」というお題で大喜利があったとして、「僕と君の青春はどどめ色さ」という回答を出したらIPPON取れるんじゃないか?そんな風にさえ思うのである。
それくらいJ-POPの教科書では美しくない響きの言葉なのだ。

これはおそらく私だけの感覚ではなく、J-POP業界全体の美学でも同様なのではないかと思う。実際歌ネットの歌詞検索で「どどめ色」と検索すると「青春病」を含め2曲しかヒットしない。(ちなみにもう1曲はヒプマイ、こちらも20年3月リリースの新しい曲)
「春色」で178件、「わたし色」といった造語でも14件あるのだから、「どどめ色」が歌詞の美学から如何に敬遠されてきたかは歴然だろう。

なのにどうして?「どどめ色」をカッコいいと感じてしまうのか。
これこそが藤井風の成し遂げた大仕事なのだ。

「ダサい」を「カッコいい」に変えること

おそらく時代の担い手、時代の開拓者というのは、新たな価値観を切り拓く人なのだと思う。
99人が「ダサい」と思うことを、1人の影響力で「カッコいい」に変えてしまう。そういう人間の存在で流行というのは移り変わっていくのだ。ファッションの世界なんかはダサいとされていたものが急に今日から流行になるようなことが多く特にわかりやすいと思う。
そしてそれに影響を受ける99人が新たな「カッコいい」を常識にしていく。これが時代だ。

「何なんw」からの流れで徐々に我々の美学は変えられていたのか?藤井風という存在がそもそも価値観を覆すくらい圧倒的なものだったのか?感覚の原因は凡そ測り知ることはできない。
そこにあるのは藤井風という1人の影響力で、「ダサい」が「カッコいい」に変えられてしまったという事実だけだ。
そしてその新たな「カッコいい」を礎にこれから新時代の音楽がどんどんと世に出ていくであろう。

歌詞の世界において、ここまでわかりやすく時代の転換を肌で感じたのは初めてだった。
もちろんJ-POPの歴史の中では今までもあったのだろう。ただ自分の肌で感じた、ということが当然自分にとっては重要である。それだけに衝撃がでかい。
時代を創る音楽というのはこういうものなのだ。


自分も、今後音楽を創っていきたいと考えている人間の端くれとして、新たな価値観を提示するという観点を忘れてはいけない。
育んだ美学の中で良いと思えるものを探究したいという感覚で音楽を創っていたが、それだけではダメだ。
美学から逸れることに違和感や怯えを感じているようではきっと時代など創れないのだろう。

「青春病」はそんなことを気づかせてくれた特別な楽曲になった。


ひょっとしたら「ダサい」って、幻想なのかもしれないな。


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