見出し画像

DGS2のEDやED直前のアソウギカズマに思うこと

 このnoteは私(芥子鴉)が個人的解釈を述べる場であり、他者の主張解釈その他意見を否定するために作られたのではないということをご留意ください。
 公式の関係性に"愛"という言葉を使いますが、"友愛"や"家族愛"などであり、いわゆるカップリングと言われるものを公式として推奨している訳ではないので誤解なきようお願いします。
 そして大逆転裁判1・2に関するネタバレが飛び交いますので未プレイの方はやってから読むことを強くお勧めいたします。
 全人類、やってくれ。


亜双義一真が成歩堂龍ノ介へ求めたもの

 亜双義一真は主人公である成歩堂龍ノ介が弁護士になるきっかけを与えた男であり、その才を見出した男でもある。しかし亜双義は本当に"弁護士の才能を見出したから"親友を旅行鞄トランクに入れて密航させてまで大英帝国に連れて行ったのだろうか。
 その答えとも言える発言が大逆転裁判2のEDで明かされた。

「‥‥留学が決まったとき。オレは自分のとるべき"道"を決めかねていた。」
「たとえ、どんな末路をたどるにせよ‥‥キサマに見届けてほしかったのだ。」
「もし‥‥オレが被告席に立つことになれば、その弁護席にはキサマが‥‥」

大逆転裁判2 ED

 亜双義が成歩堂へ望んだことは一種の"看取り"だったのである。

・亜双義一真の言う"末路"とは

 ではその亜双義の言う"末路"とはどんなものを想定していたのだろうか。親友に、もしくは彼が相棒と呼ぶ男に見届けさせたかった"終わり"とは。
 その仮定として亜双義は自身が被告人席に立つことになった時の話をしているが、ここで疑問が一つある。
 亜双義が仮定する"被告人席に立った彼自身"は果たして白なのか黒なのか、だ。
 もし無実の自分を想定している場合、それは弁護士としての成歩堂に期待を寄せていると言えるだろう。ゲームで描かれていたように被告人の疑いを晴らし、真実を明らかにすればいい。亜双義としても何ら一つ疚しく思うことはない願いだ。
 だがもし、本当は有罪である自分を想定していたとすれば話は大きく変わってくる。何故ならばその場合、成歩堂は亜双義が犯した罪と向き合った上で、それでも道を踏み外した親友の終わりを見届けないといけないということになる。
 大逆転裁判1の3話での裁判のように、コゼニー・メグンダルのように、本当は有罪なのに無罪を勝ち取るために成歩堂を共犯者にするつもりは亜双義にもないはずだ。そんなことを願うような人間であれば、バンジークスを《死神》だと信じ、父親の無念を晴らすために、名誉を回復するために検察側の人間として法廷に立った時の成歩堂との向き合い方が変わってくるだろうし、自分の敵方と言える場所に立つ成歩堂を喜んで迎え入れたりもしないだろう。
 つまり、亜双義は成歩堂を自らの罪の共犯者にしようとは思っていないのだ。
 密航は? という疑問は勿論だが、あれはあくまでも"連れていく"ためであり、これから起こすかもしれない犯罪自体には無関係というていでお願いしたい。(ならすでに手遅れでは? それはまさにそう)
 親友を密航させている件についての亜双義の行動は冷静にそう判断した点と冷静ではなかった点、主に二つに分けられる。
 冷静に判断しただろう点は"大英帝国に渡ってしまえば日本側からの干渉はない可能性が高い"こと。これは慈獄の存在が大きく、亜双義の行動が問題視されると交換殺人の達成が不可能になる可能性が高く、それ故に見逃され許されるだろうと打算があった確率は高いのではないかと思われる。
 さらに仮定の話を続けるのならば、大英帝国の人間が大英帝国の人間を殺した裁判で被告人となってしまった成歩堂の身を案じた可能性や、新聞で殺人犯と名前が載ってしまったことなどにより日本にいることの方が危険だと判断した可能性などもある。
 しかしだからと言って成歩堂の密航が妥当となる訳ではなく、かなり問題のある行為だったことは間違いない。逆に言えばそれほど亜双義にとって成歩堂を連れていくことの重要性が高かったとも言えよう。

・亜双義一真の使う"相棒"という言葉

 成歩堂は亜双義のことを親友と呼ぶが、亜双義は成歩堂に対して親友と呼ぶ以外に"相棒"と呼びかけることが多い。
 親友という言葉は文字通り、"親しい友""互いに心を許し合っている友"などであり、友人の延長線上に位置する言葉だ。二人が夏の弁論大会で出会い、友人になって仲を深めていったその最終地点として相応しいものだと言える。
 では"相棒"という言葉の意味はなんだろうか。更に言うのならば、何故亜双義は成歩堂に対して"相棒"と呼ぶことを選んだのだろうか。それを前提とした上で相棒の言葉の意味を見ると、少し考え方が変わってくる。
 相棒とは"仲間""一緒に仕事をする相手""パートナー"、つまりは友人という枠以外にもう一つ二人の間で共有する何かがあってこそ成り立つ言葉なのだ。
 ならば、亜双義はどうして成歩堂に"相棒"と呼びかけるのだろう。
 ワトソン教授の殺害事件の前から、成歩堂が弁護士として法廷に立つ前から、どうして。何が彼をそこまでさせたのか。

・亜双義一真の我儘

 亜双義は成歩堂へ自らが大英帝国に行かねばならなかったのかを伝えていない。表向きの"日本の司法を変えたい"までは告げていたが、それは嘘ではなくとも全ての真実ではなかった。それを成歩堂が知っていくのは亜双義の"立場"と"役割"を表す腕章亜双義の"魂"を表す《狩魔》を引き継いだ後、そしてその《狩魔》を亜双義に返したあとのことだ。
 それでも亜双義は成歩堂のことを相棒と呼んでいた。はたして彼は何を自らの親友と共有したかったのだろう。
 密航という形で大英帝国に連れて行き、自らが起こすかもしれない犯罪の共犯者にするつもりはなかったとはいえ、真実を全て告げずに、何らかの形で自らが終わりを迎えるその場所へ連れていくこと。
 それは親友への甘えとも言えるかもしれない。全て真実を告げずとも最後まで信じて欲しいという、親へ無条件に愛を乞う子供のような。

「アイツも義理がたいオトコだ。‥‥言えるはずがないだろう」

大逆転裁判2 5話

 これは御琴羽寿沙都が成歩堂と共に日本に帰りたいと告げた時、何も言わないのだと寿沙都に返された時の亜双義の言葉だ。
 亜双義は成歩堂に対し、共に来て欲しいと言った男。
 成歩堂は寿沙都に対し、共に来て欲しいと言えなかった男。

 亜双義が口にした"義理がたい"という言葉は何に対して向けられたものだろうか。義理がたい、つまりは義理堅いとは"人として守るべき道徳や倫理観を大切にし、疎かにしない"こと。
 言えるはずがない、とはつまり"寿沙都があるべき状態に戻ることの妨害"もっと直接的に言うのならば"亜双義の法務助士である寿沙都の道を違えさせること"でもある。
 さて、思い出してみるとしよう。
 亜双義は"英語学部の学生である成歩堂の道を違えさせ、弁護士にさせた"男だ。そういう意味では彼はとっくのとうにやらかしたあとだった。最終的に成歩堂は自分の意思で弁護士になることを決めたとしても、その道の最初の一歩を踏み出させたのは間違いなく亜双義その人。
 自分がしてしまったことを出来ない男に対しての"義理がたい"と称する様子は一種の眩しさを感じているようにも受け取れる。妬みでも嫉みでもなく、ただ純粋にその信じることを選び、己の道徳や倫理に背くことは選ばない強かさ。人はこれを臆病と称することもあるが、少なくとも亜双義はそれをマイナスのものだとは思っていないのだろう。
 そしてそれは成歩堂が弁護士ではなかった頃から、亜双義にとって成歩堂という男は"変わらない"人間なのだ。

・亜双義一真の思う"成歩堂龍ノ介"という男

 まだ成歩堂が弁護士ではなく、司法留学生亜双義一真の代理でもなく、何物でもなかった頃。大逆転裁判1の2話以前で培われた亜双義が成歩堂へ向ける性格や性質に関する言葉はどれもどこか光を感じさせるものだ。

「‥‥世の中。スナオなだけでは渡っていけぬ‥‥それを知るがいい」
「時に、オレは。キサマの無邪気さが目にシミるほど、まぶしいことがある」

大逆転裁判1 1話

 スナオさ、無邪気さ。人を信じ抜くこと、人の悪意を疑わぬこと。義理堅く生き、真実に対して誠実であろうとすること。
 それはどれもがかつて亜双義一真という一人の子供が持っていたけれど、父親を亡くして一通の手紙をきっかけにして亜双義が失っていったもののように思える。だからこそ亜双義は成歩堂がそれらを失わなかったことに対して価値を見出している。
 私はそれを弁護士としての才以前、"何者でもなかった成歩堂龍ノ介"に向けての言葉だと思うのだ。
 それこそが亜双義の口にする、成歩堂に対しての"変わらない"という評価の根源。弁護士として成長しているはずの成歩堂を変わらないと言うのならば、弁護士としての成歩堂よりも彼を彼足らしめている何かが亜双義の中にあったということになる。
 成歩堂龍ノ介という男の本質を亜双義は評価し、その上で親友と呼ぶ程に好んでいたことは間違いない。

・亜双義一真を"看取る"とは

 そして話は冒頭の内容について戻るが、亜双義が成歩堂へ望んだことは"弁護士として自らの行く末を守ってほしい"という被告人が弁護士を頼って縋るものではなく、"成歩堂龍ノ介として亜双義一真の人生と使命の終着点を見届けてほしい"という純粋な祈りであり願い。それが招く結末が本当に純粋であるかは別として、亜双義という男が唯一父親には関係なくとも己の《カルマ》を唯一背負わせた相手が成歩堂であるということも事実だ。
 狩魔カルマカルマ、奇しくも同じ音を有する二つのもの。成歩堂は亜双義にまつわる二つのカルマ、そのどちらも背負っていたのだ。
 被告人席に立つ自分を想像した時、亜双義がもし心から自分の潔白を信じていたのならば「キサマにならば任せられると思った」など、直接的な言葉があったかもしれない。だがきっと、そうではなかった。
 私がその願いを"証明"ではなく"看取り"と称したのはそこの違いが主な理由だ。
 交換殺人に関係するところの殺人かもしれず、真犯人を法廷では証明できず自分の手で罪を拭わせたからかもしれず、人は殺さずともグレグソン刑事のように証拠の捏造をしたかもしれず、もしかすると第二の《プロフェッサー》と呼ばれる未来があったかもしれなかった。
 もしくは仮に亜双義が法廷では真犯人であるハート・ヴォルテックス、もしくは《死神》を真犯人だと信じ続けた場合バンジークスに対して罪を立証出来ず、どうしても仇を取りたかった亜双義が道を誤り殺人事件やそれに近いことをしてしまったとしても、成歩堂が弁護士として立っていれば亜双義の犯行の証明と動機の立証に10年前の事件に触れ、亜双義の犯した罪と十年前の事件の双方の真実が明らかになる可能性だってある。その場合、結果的には父親の汚名を雪ぐことが出来てしまうのである意味本懐を遂げられてしまうのだ。
 これらの仮定を鑑みるに、"末路"はそのまま使命や志だけではなく人生の終着点を意味していたかもしれない。
 その罪が本物で、それでも最後に看取って欲しいと願うのならば。
 最後のその瞬間、《被告人席》に一番近い《弁護席》に立っていて欲しいと願うのならば。
 信頼している人間にそばにいて欲しいと言うよりも、幼子が誰かに手を繋いでいて欲しいと望むような、そんな原初の感情。
 それを人は"愛"と呼ぶのではなかろうか。
 もしもこれを読んだ人が"愛"という言葉に疑問を感じたのならば、あなたが自分が死ぬというその時に誰の顔を見たいと思うか、誰に手を握っていて欲しいと思うか、それを考えてみてほしい。
 両親や兄弟、祖父母や子供などの家族かもしれない。
 恋人や夫、妻。自分が選び取った最愛の恋しい相手かもしれない。
 それ以外の関係性を言葉にするのが難しい相手かもしれない。
 そして、一番親しい友人かもしれない。
 家族愛も恋も友情も、突き詰めてしまえば全てが"愛"だ。人が誰かに向ける感情として、一番多くの意味を持つもの。様々な感情が混ざり合った果て、それを人は"愛"と呼ぶ。
 使命を果たさぬままにおめおめと死ぬ気はなかったろうが、そこで何も果たせずに終わることへの恐怖を拭い去るには一つの指針が必要だった。それが亜双義という男にとっての成歩堂だったのではないかと、私は思う。
 そして亜双義は見事、成歩堂に看取られた。彼が求めた真実は明らかにされ、傷も得たがこれ以上に無いほどの大団円となった。そしてそれは"相棒"としての一区切りでもある。
 亜双義一真が成歩堂龍ノ介へ向けていた願いは、一つの終わりを迎えていた。

・亜双義一真の"看取り"とその後

 先述の通り、亜双義は自らが相棒と定めた男に看取られた。そしてその共有するべきものを成歩堂に明らかにする前に終わりを迎えている。それはどう説明したとしても言い訳にしかならず、義理堅いと思っている相手に堂々と言い放てるようなことではない。
 だからこそ亜双義は大英帝国から成歩堂を見送ろうとした。距離の問題ではなく、人と人としても一つの区切りを迎えようとしていたのだ。

「親友の"旅立ち"だ。見送らぬわけがないだろう」
「それでは、行くがいい。達者でな‥‥成歩堂」

大逆転裁判2 5話

 亜双義はこの時、今まであれだけ相棒と呼んでいたのに呼ばなかった。
 《狩魔》を託していたものの、再会の約束もしていない。
 日本へ帰る者へ向ける言葉というよりも、亜双義は自らが送り出してその手を離すような、役割を終えた者を見送るような、彼らしくはない大人しさと謙虚さが目立った。
 亜双義は全てを知った成歩堂が何を考えているか聞いてないまま、知らぬまま、弁解もせずに終わりを受け入れている。
 それこそ、全て真実を語らぬままの亜双義にただ着いて来て欲しいと頼まれて着いていった成歩堂のように。今までとは真逆、このとき彼は珍しく受け身に回っていた。
 しかしそれに対して、成歩堂は己の心を行動と言葉で表した。

「亜双義。‥‥剣を抜け」
「‥‥‥!」
「‥‥いつか、ぼくたちの《道》がふたたび、交差するとき。おまえと、言ノ葉の"やいば"を交わすことになるだろう。そのときを待っている。‥‥弁護士として」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥。その言葉を聞きたかった‥‥相棒!」
「それでは‥‥また会おう、亜双義」
「‥‥ああ。必ずな‥‥成歩堂!」

大逆転裁判2 5話

 友人同士、刃を交わらせる行為というのはクリムトと玄真の決闘を思い出させる。しかも「剣を抜け」だ。
 先程までの亜双義が亜双義らしくないとするなら、この成歩堂も成歩堂らしくない。少しばかり強引に見える。例えるならば、そう。まるで彼の親友のように。
 玄真は確かに人を殺していた。決闘という私闘で、本来なら法の裁きを受けなければならない人物をそうはさせなかった。人の罪を法ではなく、人が裁いたからこそ起こり得た悲劇だ。玄真の情の深さが招いた悲劇とも言える。
 しかし成歩堂は"言ノ葉の刃"を交わらせると言う。狩魔ではなく、言葉で亜双義と向き合うのだと宣言した。それは成歩堂が亜双義に指し示すことの出来るの中で最も誠実な友情だ。知らぬままでも、聞かぬままでも、それでも二人は《道》が交わり、言葉を交わすのだと。そう信じているという宣言だ。
 このとき、亜双義は許された。許されてしまったのだ。
 亜双義の2のEDでの独白を成歩堂は知らぬままだ。もしかしてという仮定の世界で訪れていたかもしれない心に大きな傷を負うかもしれないような、そもそものきっかけの亜双義の願いはなんだったのかと、何故自分を連れてきたかの答えを成歩堂は求めなかった。
 亜双義はこの時、再び相棒と呼んだ。
 成歩堂の示す再会の約束にも"必ず"と答えた。
 刀を合わせ、宣言する。この儀式は成歩堂が亜双義を再び同じ高さまで引き上げるために行われていた。亜双義は自分が成歩堂に背負わせた全てを無自覚なままでいられるような人間ではなく、自覚してしまえば罪悪感のようなものもあっただろう。
 だがそれを抱えたままで、再び二人は向き合った。
 それこそが成歩堂が亜双義に示した彼の今までの信頼と友情に対する、真実を全て晒せなかった男に示した答えだった。
 成歩堂がそういう人間であったからこそ、亜双義は他でもない彼に看取りを望んだのだ。

・亜双義一真という男

 亜双義一真は磨き抜かれた刀のような男だ。不必要なものを限界まで削ぎ落とし、ただ目的に邁進する。機械のようだと言うのはあまりにも感情に溢れすぎた、そんな男。
 自分が鈍ってなまくらになることを許せず、己を研ぎ続けた男。
 では彼は、本当に最後まで"刀"のような男だったのだろうか。
 私はその疑問の答えこそがこの物語における、成歩堂が亜双義の友人となり親友となり、そして相棒と呼ばれた一番の理由のように思えるのだ。
 亜双義はさまざまなものを失ってきた男で、両親だけではなく当たり前の日常や些細な幸福、ただの学生として生きることなど、彼の努力の積み重ねによって消えてきたものが山ほどあると思っている。だがその失われたものたちを彼が失ったまま今の今まで来たかと聞かれれば、きっとそうではない。
 弁論大会がきっかけで亜双義は自らが無価値だと断じ、見下した男に負けた。そして直接話に行くも、ワケの分からないことを言われただけで自分が参考に出来るものはなかった。再現性のない謎の者という認識になる。
 価値がないと断じていたものに価値があるかもしれないと知り、自分の欠点をどうにかするために成歩堂に近付き、それで得たものは本来の目的である滑舌ではなかった。
 では、何を得たか。その疑問の答えこそが"かつて亜双義が失ったもの"であるように思う。
 成歩堂が普通に日常を送っていれば、その謎を解き明かそうと接触する亜双義も同じ日常を共有する事になる。友人と楽しく食事をし、父親の真実を明らかにするためには関係のない、純粋に彼が彼らしくある時間を取り戻していく。
 成歩堂はきっと誰かが落としたものを拾い、本人に返すことが出来る男だ。大人を信じられなかったジーナ・レストレードに信じることの意味と価値を取り戻させ、日本人を憎むことしか出来なかったバンジークスに彼が元々抱いていた信頼を思い出させた。
 決して眩い太陽のような男ではないけれど、空に浮かび、それを見上げる人たちの指針となる北極星のような男でもある。
 おそらく、亜双義が一番刃として研ぎ澄まされていたのは成歩堂と出会う前だったのだろう。触れたものを切り裂くのに躊躇がなく、自らが掴み取ると決めたものはたとえ何をしようとも掴むと決めた男。
 亜双義がグレグソン検事に《狩魔》を向けた時、その心には確かに殺意があった。だが《狩魔》は肉体を切り裂くことなく、その先端が折れてしまった。
 もし亜双義が成歩堂と出会っていなかったら、彼という人間が磨き抜かれた刃のままだったら、その刀は本当に人を切り裂いていたかもしれない。誰かに看取られることをも望まず、たった一人で走り続けている男だったのならば。
 もう一つ例えを出すのならば、流星のような男。
 空を駆け抜けていき、誰の目にも鮮やかに軌跡を残し、そして燃え尽きて消えてしまう。そしてそれを見た者は流星を追いかけるように進む、そういう男。

 刀のように磨き抜かれた男だったアナタ。
 空を駆け抜けて燃え尽きる流星のような男だったアナタ。

 抜き身の刀のままではなく、鞘を見つけてくれてよかったと思う。
 空に浮かぶ北極星が変わらずそこにあることを思い出してくれてよかったと思う。

 願わくば、ただの亜双義一真でしかない男とただの成歩堂龍ノ介でしかない男の道がこれから先、何度も何度も交わっていきますようにと願いを込めて。


 以上を持ちまして拙い文章は終わります。
 何かありましたら連絡先はこちら。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?