26年

今日は阪神・淡路大震災から26年を数えた日である。一年のうちで忘れてはならない日の一つであり、不思議なことに寝坊助の僕が無意識に6時前には目が覚めてラジオのニュースを聞いていた。もうそんなに経ったのか、が正直な感想である。災禍で最も恐れるべきは「風化」であり、当事者でなければ四半世紀も前の事柄に心寄せることは年々少なくなっていってしまう。そこにメディアの役割が有るとも僕は思うのだが、25周年の節目にあった去年は一面で取り扱われていたのが、今年は一面からは消えていた新聞もあった。忘れてはいけないけど、忘れてしまう。だから気づかせる仕組みや仕掛けが必要といつも考えている。


あの日のことを振り返ってみる。東京の学生寮で生活していた僕は、地震を体感していない。そのことに気づいたのは、昼頃。寮の一室で起きたら同室のT君(高知県出身)がテレビに見入っていた。何が起きているのか尋ねると、とにかく関西が大変だと言う。在寮生の何割かを占める関西出身者も、ただ事ではない様子。普段は陽気で冗談を言っている彼らが青ざめた表情で右往左往している。どうやら家族と連絡が取れない輩もいるようで、さながら非常事態であった。取り急ぎ実家に連絡してみると、家族に異常は無かったが、関西の親戚とは連絡がつかない状況と聞いた。あの日の僕の気持ちは何でも上の空だったけど、関西の連中の不安をどうすることもしてやれなくて、ただまんじりとテレビのニュースを観ていたように思う。


その後しばらくして、同室T君の高校の同級生が行方不明だとか、僕の高校の同級生が神戸大学に行っていて彼自身は無事だったけどクラスメイトが何人も命を落としたとか、そういう話が入ってくるようになった。災害で命を奪われるということがリアリティをもって徐々に迫ってきた。そして日常がいとも簡単に壊れることを知ったのである。


近しい人が急に亡くなるということは、病気とか事故とかでもあるけれど、自然災害の場合には、特にそのやるせない気持ちの持って行きようが無い気がする。残った人たちは、どんな悲しい別れが有ろうとも今日を生きていかねばならない。食べなきゃいけないし、出るものは出る。「明けない夜は無い」という表現が、時と場合によっては非常に残酷だと思わせられたのも、阪神淡路大震災以降、東日本大震災や西日本豪雨災害など数々の自然災害の被害を知ってからである。いつまでも悪いことが続くわけではないけれど、大切な人や住まいを一気に失ってもなお、その状況下で人間は生活を続けなければいけない。


自然の脅威に抗うことはできない。人間の無力さを痛感する。だけど、どうにか共存して自分たちの暮らしを守る努力はすることができる。想定すること。備えること。そのために英知は使われるべきであろう。


26年前に図らずも旅立っていかねばならなくなった方々、震災関連死という形でこの世とお別れされた人々に今日は心寄せたい。

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