見下すについて

え、この動画つまらな…!これが好きなの?こんなよくある面白さが?
え、このノリ何!?お、面白くない…!なんでみんなが盛り上がって、笑っているのか、不明…!
え、そんなこと言ってるの…?それって幼稚な考えじゃあないの…?

こう思ってしまう自分がいるということ、それ即ち「自分はそれより良い」と思ってしまう自分が顕現している証拠なのですね

だから、A(物事、状況、人物などが当てはまる)を「え…」と思ってしまったときは、Aに対する感情を一旦どこかに置いておいて、自身に矢印を向けてみます。
すると、「人はそれでハッピーを得ているのに、なぜ私は嫌なのか?」という問いが出現します。
つまり、人がハッピーならわたしも人としてハッピー(人は全て苦しいものなので、人がハッピーというだけでありがたいこと)、でいいのに!おい!という問題提起の発生です。自分の修養のチャンスです。
自身の「え…」を、内省のスイッチとしましよう。
人のハッピーがそこにはあるのだから、ハッピーなことなの!それを、忘れてしまっていた自分に、喝を入れるチャンスなの!

また、人の発言は全て案外適当である可能性を含んでいるということも忘れてはいけません
いちいち「そんなこと言うの…?」なんて過敏に反応していたら普通に私が疲れてしまうだけです
けっこう適当に流しましょう、置いておきましょう、わたしだって適当に発言してしまうときは山ほどあるのだから、ひとつの発言でその人のことを判断しないことです

「え…」と思ってしまうのは仕方ありません、わたしにはわたしなりの倫理観であったり道徳であったり品性であったり(どれも適当🥵)があるので、そのラインを超えたものを刺激として捉えてしまうのは受け入れるべき反応です(無理にやめようとするべきではないもの)
でも、「その人」に対して「え…」と思っては絶対にいけません。ひとつの発言でひとりの人に対してマイナスの感情を抱いてはいけません。
「その発言」「その事象」に「え…」の焦点を絞り込むことです。

あと、目に見えるものは、全てではありません。5割も見えていません。5割は見えている、と思うのも驕りでしょう。
楽しそうに見える人も、その人のポリシーにより「今は楽しそうにしよう」としているだけ(生きるのを頑張っている)なのかもしれないし、それは私には分かり得ないことです。
だから、「え…」と思ったその対象のふわふわさ、も忘れてはいけません。
わたしは何も見えていないので!
ならば、先ほど「え…」と思うこと自体は自然な反応、みたいなことを書きましたけれども、「え…」の直前に「まあ何もわからんけど…」が来れば、そんなふわふわしたものにいちいち「え…」と思わずに済むのかなとも考えられます、今のわたしにはあまりに理想論!

しかも、A(対象)ってめっちゃふわふわしているだけじゃないんです!
A自体はわたしの人生には関係ないことなんです!
地球上の他の誰かが楽しくなっているならそれでじゅうぶん素敵なこと!(嫌味ではなく本当のことば)
うーん やはり、Aにいちいち「え…」って思うのって意外とやめられそうかも!

ただ、その対象が人に迷惑をかけるものであったりすると話は変わるのかな(嫌がらせの現場の目撃!みたいな)
でも、それもそういう事象(人と人が触れ合ったらほぼ確実に発生してしまうあるある)が起こっているというだけだから、「人とは、悲しいです…」でいいのかな
でもそれだと目の前の人間の苦しみをスルーしていることになってしまう
だから、その事象は人の性質としてしょうがないことだと理解しつつ、目の前に苦しみ!が見えたらスルーしない(ただスルーしないだけではダメ、ちゃんと後悔のないよう見ること)、くらいの姿勢が良い気がしますね
見えていない苦しみに突っ込んでも、本当の苦しみは見えませんし、何をしたらいいかも分かりませんからね
苦しみをわかるために、いろんなことが「苦しみ」だと気づくために、「見える苦しみ」を増やすために、学びが必要なんですね!

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