日本人の稚拙な「コミュ力」
今の若者に最も求められる能力として「コミュニケーション能力」が挙げられている。
しかし今、高い社会的地位を築いている大人達は、果たして「コミュニケーション能力が高い」と言えるだろうか?
僕はそう思わない。
先日から話題になっているアメフトの悪質タックルの件を見てもそう思う。
この悪質タックルの件について、詳細を述べるつもりは無い。今日、問題としたいのは「釈明会見における監督とコーチの発言にコミュニケーション能力の高さを感じたか?」という一点である。
僕は全く感じなかった。
嘘を付くにしても、もう少しマシな嘘があると思うし、あんな言い分で聞く人が納得すると思ったのだろうか?
むしろ他人とコミュニケーションを取るのが苦手な人間が自分の言いたい事を上手く言葉に出来ずに、辻褄の合わない事を言っているようにしか見えなかった。
ただ、彼らはいわゆる「体育会系」だし、その頂点に君臨するような人種だろう。本来は「コミュ障」とは最も遠い存在であるはずなのだが。
群の中のトップは「コミュ力不足」になりがち
あの監督は、自分のチームではとても威張っているのだろう。彼の言うことは絶対だろうし、誰も異論を唱える事は無い。
そうした環境に長期間いる事で「他人とコミュニケーションを取る事の難しさ」を忘れてしまうのだと思う。
そんな環境に長くいると「相手に自分の考えを伝えるにはどうすれば良いのか?」とか「今の自分の置かれている状態を少しでもよくするには、どういう発言をしたら良いか?」などを考えられなくなってしまうのだろう。
そう。自分が言った事は絶対、誰も逆らってはいけない。という状態は「誰ともコミュニケーションが取れない状態」なのだ。
そもそもコミュニケーションって何?
コミュニケーション(communication)
1 社会生活を営む人間が互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと。言語・文字・身振りなどを媒介として行われる。「コミュニケーションをもつ」「コミュニケーションの欠如」
2 動物どうしの間で行われる、身振りや音声などによる情報伝達。
[補説]「コミュニケーション」は、情報の伝達、連絡、通信の意だけではなく、意思の疎通、心の通い合いという意でも使われる。「親子の―を取る」は親が子に一方的に話すのではなく、親子が互いに理解し合うことであろうし、「夫婦の―がない」という場合は、会話が成り立たない、気持ちが通わない関係をいうのであろう。
デジタル大辞泉から引用
という事らしい。
つまり「お互いの意思を伝えあう作業」と言うわけだ。
偉い人間が、一方的に好き勝手話して、それに相槌を打つ事はコミュニケーションでは無いのだ。
しかし、日本ではそういうケースで「上手く相槌を打てる人間」をコミュニケーション能力が高い人間としている。
そもそも、多くの人がコミュニケーションの辞書的な意味すらまともに理解せずに、何となく「コミュニケーション」という言葉を使っているのだ。
たぶん、日本の社会的地位の高い人で、とても愚かな会見や会議をしてしまう人達も、本当は馬鹿では無いのだと思う。
しかし「自分の思考を相手に伝える努力」をめちゃめちゃ怠っているので、頭で考えてる事が上手く言葉に出来ないのだと思う。
確かに、イエスマンに囲まれて、何を言っても「さすがですね!素晴らしい!」としか言われないままに生活していたら「相手が本当に自分の意図を理解してくれているか?」とか考えなくなるんだろう。
就職面接で見られる「コミュ力」は単なる「相槌力」に過ぎない
さて、新社会人に最も求められる能力が「コミュ力」になってから久しいが、これは「コミュニケーション能力」ではない事を話してきた。
では、本当に企業が求めている能力、上司の言うことを目を輝かせながら聞いて、タイミング良く上司の求める質問をして、上司がカタルシスを感じながら説教が出来るような人材の能力。
それを「相槌力」と名付けよう。
そうなのだ。日本社会で求められる能力は「相槌力」なのだ。コミュニケーション能力ではない。
就職面接だってそうだ。
いかにその会社のポリシーに合っているか、会社のポリシーを理解しているか、を入念にチェックする。
「貴社は、○○な所がダメなので、そこを僕が変えに来ました!」という人材は、本来素晴らしいのだが、絶対に採用しない。
結局「会社のポリシーを褒めて、賛同しているフリを上手にする人」を採用する。
そう。飲み会での上司への相槌は面接から既に始まっているのだ。
自分の本音を言わないコミュニケーションは無と同じ
この国では、相手に同調する力である「相槌力」をコミュ力と呼んでいる。しかし、それは本来の意味ではコミュニケーションの対局なのだ。
自分の思った事を相手に正確に伝える事がコミュニケーションなので「相手に合わせる為に、自分の言いたい事を言わない」のは、その真逆という訳だ。
しかし、しばしば真逆の意味でコミュニケーションという言葉が使われて、自分を偽れずに自分の思った事をそのままに言う、本来の意味でのコミュニケーションを取ろうとする人は「空気が読めない」と言われたりする。
みんな「空気が読めない」と言われるのを恐れて「その集団の空気を作る人」=「立場的に偉い人」に上手く相槌を打つ事だけを考え「本当の自分はどこに?」と悩んでいる。
そこで、悩まずに相槌を打てる人間が「コミュニケーション能力が高い」と評価される。評価される為には「空気を読んで、空気を作る人に同調しないといけない」という訳だ。
この環境が良いとか、悪いとかは此処では言及しないが、それはコミュニケーションでは無いという事だ。
そして、コミュニケーションを取らない若者も、年長者も、コミュニケーション能力を失い「群の外」の人間には理解されない様になる。
そんな事を、今回のアメフト悪質タックル釈明会見で感じた。
「コミュニケーション能力が足りない」と言われても、気に病む必要は無いのだと思う。
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