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いわきの人たちは”配慮”が上手い

まず初めにタイトルの都合上、主語が大きくなってしまう事をご理解いただきたい。もちろんそういう人ばかりではないことは承知の上である。
また、このnoteで書いていることはあくまで個人的見解または感想であることを先に述べておきたい。


上記のタイトルは、今年に入ってからいわきFCの応援を始めた私が、率直にこの半年間で感じている『感想』だ。
別にラベリングしたいわけでも、定義づけしたいわけでもない。
ただ、いろんな情報に触れ、試合会場に足を運び、そこにいる人達と関わることで見えてきたイメージである。


サッカーの応援をする上で、そのクラブのサポーターの『色』というものは、必然的にその地域に住む人たちの『地域性』や『住民性』が反映された形になることが多い。
海外のクラブだとさらに民族や宗教、職業など様々な要素がここに加わり、クラブの成り立ちの背景そのものにこうした性格が関わってきていることが数多い。
『いわき』という地域にちなんで有名な具体例を挙げると、過去に内田篤人が所属していて最近吉田麻也が加入したドイツのシャルケ04などは、1900年代初頭に炭鉱で働く人々の手によって創設されたチームであり、応援歌などには石炭への思いを込めたものもあるぐらい、そのクラブ・サポーターの色となっている。

いわき市の歴史

いわきFCの応援を本格的に始めるにあたり、私はまずいわきFCの成り立ちやいわき市の歴史について、簡単にではあるが学んだ。
遠方への旅行に行く時に少しでも楽しく過ごすために旅先の情報を仕入れるのと同じで、自分が生活している場所とは違う地域にあるクラブのサポーターとより楽しく関わっていくには、こうした情報は持っていないよりは持っていた方が『色』を理解しやすい。
そうした想いもあって、これまでも他のクラブのサポーターと関わる機会がある時には、相手のクラブ、相手の街の情報を頭に入れるようにしている。


http://www.city.iwaki.lg.jp/www/contents/1001000004062/simple/iwaki-history.pdf

今回、参考にさせていただいたのはいわきFCのホームページはもちろんのこと、いわき市が公開している『いわき市の歴史等について』という20ページほどの資料だ。
これですべてを理解できるわけではもちろんないが『さわり』をイメージするには分かりやすい資料だった。

この中で私が特に、タイトルにある『いわきの人達は”配慮”が上手い』と感じたサポーターの『色』になる住民性の基になったと推察されるのが『廃藩置県』と『昭和41年の合併』である。
歴史をたどっていくと、いわき市という地域は元々、集落や生活圏ごとに別の藩・別の県・別の自治体であったということが分かる。
それが政府の方針や石炭産業の斜陽化の影響からの脱却といった、やむにやまれぬ理由で『いわき市』という一つの自治体になっていった。

この中で特に注目したいのは昭和41年の合併時に行われた『14市町村の対等合併』という点である。
平成の大合併という言葉は記憶に新しいが、この時ですら2つや3つの市町村が合併交渉がうまくいかずに頓挫するなどの事例が全国で枚挙に暇がないほど発生している。
結果、対等合併のはずが吸収合併になってしまったり、他の地域と合併して飛び地が生まれてしまうなど、様々な経緯をたどっている。
それだけ『地域性』や『歴史』が違う人々が一つの自治体として手を合わせてやっていくのは難しいことなのだ。

現代ならまだ交通手段などもある程度確立されて移動が容易なため、生活圏が重なっているという点などもあり合併がしやすくなっている側面もあるものの、それが戦後まだ20年という段階で『14もの市町村が対等合併』したのである。
その合併に至るまでにどれだけの困難があったかは想像するに難くない。
実際、今回参考にさせていただいた資料の中にも『いわき市合併についての考察』という括りで合併に際しての問題点などがまとめられている。
この中で、

『合併前の旧地区を単位とする地域意識が強く、新市の一体的な行財政運営の大きな障害となった』

と記されていることから分かるように、簡単な合併ではなかったことがこの一文から読み取れる。

異質なもの



これは人間としてある意味当然のことである。
『自分達とは異質なものを受け入れ難い』というのは人間にとって生存と生活を保持するための防衛本能であり、動物であったころから身につけてきた生きる知恵なので、簡単に払拭することはできない。
しかし、いわきの人達はこうした本能を理性で抑え、プラスに転換していくため、結果的には今から50年以上も前に14もの市町村が対等合併するに至るのである。

もちろん、生活に直結する『石炭産業の斜陽化』という側面から、背に腹は代えられないという思いもあっての結果なのかもしれない。
公の資料としては残されるはずもないが、全ての人が納得した合併では無かったであろうことも想像できる。
ただ結果的に合併するに至ったということは、それぞれの『配慮』が無ければそこに辿り着くことも難しかったのではないかと推察する。
主張するところは主張した上で、譲るところは譲り、互いに共存できる生活圏を人々が構築していったのではないか、と私はこうした歴史から読み取った。

この視点が裏付けとなって、タイトルにあるような『いわきの人達は"配慮"が上手い』という印象がより鮮明化するに至ったのである。


この半年間を振り返って


今、試合会場ではいわきFCのコアにより近いところで応援させていただいているが、このわずか半年間で関わらせていただいたサポーターの皆様との活動は多岐にわたる。
本当にまだ半年しか経っていないのかと思うぐらい、色んな方々と関わり、色んなことに手を出させてもらい、twitterでは"やんややんや"させてもらい、家族一同、楽しくサポーターとして過ごすことができている。
ただこうした景色は決して当たり前のものではない。

よくあるのは中学校に入学してきた1年坊のちょっとチャラいやつが、先輩に校舎裏に呼び出される「お前ちょっと調子に乗ってんじゃねぇよ」パターンである。
それまでの文化に新しい『異質』なものが入ってくると、既存の安定した文化を持っている立場からすると面白くなかったり警戒感が生まれたりする。
だがこれは人間としては普通だ。理由は前述したとおりである。
まぁ、現代ではそんな昭和な展開はあまり無いだろうが、敬遠されたりハブられたりするようなことは今でもあると思う。
これは人間同士の関係において自分を守るための術なので、致し方ない側面だ。

しかし、いわきの人々と関わる中では、そうした空気感を覚えることはほぼ無い。
もちろん「誰、コイツ?」的な様子見の警戒感はあるだろうが、本当に敬遠されたり警戒されたりしていれば、ここまで多くの事に関わることはできなかっただろう。
奥様の大旗デビューがいい例だ。
応援し始めて2カ月で大旗振らせてもらってるやつがJリーグに何人いるだろうか。
ここにいわきの人々の懐の深さ、経験値を積んだ大人な配慮を感じるにいたるのである。(補足として、もちろん生まれ育ったルーツがいわきでは無い人も多数いるが、そうした”いわき”という地域が持つ色に大なり小なり感化された部分も少なくないと思うので、ここでは いわきの人々 に含めさせていただいたことをご了承いただきたい)

さいごに

最後に、いわき・浜通りの人々の色を語らせていただく上では欠かせないであろう東日本大震災での被災経験というものも触れておきたい。
実際にその場にいなかった者が語るべきでは無いと思うので、ここで詳細に触れることはしないが、地域の人々にとって生存や生活の根幹を揺るがす災害であったことは間違いない。
大なり小なり何らかの傷を負い、やむなくその地域から離れる選択をするしかなかった人々も多い。
そうした地域の状況からの復興をキッカケとして生まれたのが、他でもないいわきFCである。

そして今、いわき・浜通りの人達はこれまでに培った経験を糧に、いわきFCという新しいムーヴメントを生みつつある。
もちろんクラブが持つポテンシャルもさることながら、そこには地域の人々の協力が無ければ大きくなっていくことは出来ない。
過去に石炭産業の斜陽化という生活の根幹を揺るがす事態を、それぞれの配慮と共に手を携えて乗り越えた地域性は、合併と時期を同じくして誕生したスパリゾートハワイアンズの経緯として映画『フラガール』などで表された通りであり、日本のフラ文化発祥の地として地域に根差しながら広がっていき、2018年からはフラシティいわきというシティセールスも展開されはじめた。
これも今となっては普通のことかもしれないが、個人的にはスゴい事だと感じている。普通は一つの企業が生み出したコンテンツが発祥とされるものを自治体が前面に出すことはしない、というか出来ない。
他にも企業は無数にあるからだ。
必ずどこかで軋轢は生まれる。

しかし、いわきはそれが出来る。
お互いへの配慮と思いやりが成せる業といっても過言では無いだろう。
これは全国どこにでも出来る事では無い。


人を迎え入れる姿勢を馴れ合いや温いと言って嫌う人もいるだろう。
しかし、いわきのそれは次元が違う。
歴史的背景や数々の困難から、意識的にでも無意識にでも『人がいる』ということが大前提になっていると感じるからだ。
まず人がいなければ色を出せることもないのだ。
それを身をもって体験してきている地域だからこそ、配慮や思いやりの深いサポーターの色が滲み出てきているのだと、個人的に思う。

まだまだ勉強が足りず、炭鉱や漁業などの地域産業によって栄えた地域性などに触れられなかったことは課題である。
これから『いわき・浜通り』の文化に触れながら、少しずつ学んでいきたい。


浜を照らす光であれ

その言葉はいわきFCのみならず、そこに集う人々にも触れている言葉なのだろうといつも思っているし、実際に一人ひとりがそれぞれの立場や個性で浜を照らす光になっていると私は感じている。

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