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༄༅古史古伝の世界༄༅ 竹内文書 ② 天神と皇祖皇太神宮

古史古伝の世界へようこそ‹‹\(´ω` )/››。今回は竹内文書を語る上で重要な存在である皇祖皇太神宮と天神時代についてお話していきたいと思います。


皇祖皇太神宮は竹内文書を継承する宮です。天神六代の時に「天神人祖一神宮(あまつかみくにつかみはじめのたましいたまや)」として飛騨高山の位山に創設されました。


神勅による地であった位山は世界の方位や経緯度の起点とされました。スメラミコトが隆盛を誇った時代には代々の天皇自らが祭王となりこの位山の宮で大祭礼を行い、その際には世界万国から集まった民主から祝賀を受けたと伝えられています。
民主(みっとそん)というのは世界天皇であるスメラミコトの血を受け継ぐ各国の統治者です。


現在の天皇家でもこの名残は残っており、天皇が正装する際に手にもつ笏(しゃく)は必ず位山で取れるイチイの木を用いる事が定められています。何故イチイの木なのかというと、イチイは「一位」であり天皇が即位して一の位につく事を意味しているそうです。


位山にあった宮はその後上古一代の時に富山に移され、明治四十三年に竹内巨麿によって現在の茨城県北茨城市に再興されています。


これほどの歴史を持つ宮なのに世間であまり知られていないのを不思議に思われる方もおられるかも知れません。実際、皇祖皇太神宮は竹内文書に興味のある方でなければ殆どの方は知らないのではないでしょうか。


皇祖皇太神宮第六十八代管長の竹内康裕氏によると、それは御神宝を護るために長い間その存在を秘匿してきたことによるものだそうです。幾度も厳しい弾圧に遭いながら代々御神宝を守り抜いてきた事を考えるとその存在を隠すのはごく自然な事だったのかも知れません。


それにしても『あまつかみくにつかみはじめのたましいたまや』って凄い名前ですよね(;・ω・)。天津神と国津神の両方の初めの魂の宮。地球に降臨した世界天皇の宮に相応しい響きですね。飛騨高山が世界の中心的な場所であったというのも興味深いです。



スメラミコトが位山に宮を作ったのは天神六代の時ですが、初めて地球に降りたのはその一代前の天神五代の時です。

天神といえば宇宙開闢からスメラミコトが地球に降臨するまでの時代でしたね。

天神は七代まで続きますが、天神二代で宇宙に陰陽が生まれ、星らしきものが形成されていきます。この頃に地球の原型もかたちづくられますがそこはまだ泥の海であったとされます。
その後天神三代で大気圏が生まれ、四代で大陸が現れます。地球は天神四代までにほぼ完成したとされており、地美(ちみ)と名付けられます。


天神五代になると神々は天と地上を行き来するようになります。この頃の神々はまだ肉体を持たないエネルギー体であったと考えられています。


神々は往来を繰り返しながら徐々に世界を創り上げ、その後人間が生きていくのに必要な環境が整った後に初めて肉体を持ったスメラミコトとして地上に降臨されます。


スメラミコトが初めて地上に降臨した地は岐阜県大野郡舟山とされます。ここで宮を造った位山舟山の位置関係を見てみましょう。

①位山  ②舟山  ③天柱石

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近いですね。位山はピラミッドや巨石群のある場所ですが、富山県の五筒山近くには神々が往来したという言い伝えのある天柱石(地図上③)という場所があります。

また、位山の近くには高山市方面から富山の日本海側に流れる神通川という川があり、上古の天変地異により飛騨高山の宮が失われ富山に宮を移した際には神がこの神通川を下っていかれたとされます。


この神通川は位山付近では「宮川」と呼ばれており、日本海側に出る途中で「神通川」に名前が変わっているのですが、宮川というのももしかしたら天神人祖一神宮に因んだ名前なのもかも知れませんね。


こうしたことから神々は本格的に天孫降臨をされるまでにこの周辺一帯に何度も降り立っていたのかも知れません。


舟山という地名も面白いですね。古事記にも地名の由来が多くでてきますが天皇が万国巡幸の際に天空浮舟と呼ばれる船形の航空機で世界中を移動していた事を考えると山に舟がつく地名というのは意味深く思えてきます。

そして位山はにんべんに立つと書きますね。スメラミコトが宮を建てた時に初めて肉体を持った「人」として「立った」山であることが読み取れてくるのが面白いです。



今回は皇祖皇太神宮と天神についてでした🌏

ではまた次記事でお会いしましょう♪︎♪︎(*´▽︎`*)ノ゙