見出し画像

༄༅古史古伝の世界༄༅ 竹内文書 ④上古:天空浮舟

古史古伝の世界へようこそ\(´ω` )/♡︎。今日は引き続き上古時代です。上古といえばコレ。今回は上古の象徴的な存在ともいえる天空浮舟 あめのうきふねについてお話したいと思います。

天空浮舟とは世界天皇スメラミコトが万国巡幸をする際に移動に使ったとされる航空機の事です。


前回スメラミコトが世界を十六方位に分けて各国の民王に統治させたお話をしましたが、民王に任せているとはいえそれぞれの地域が抱え持つ様々な問題を解決しながら世界を一つにまとめるというのは大変な事であったと想像されます。


統治には各国の情報収集が不可欠であり、重大な事柄においては時に天皇自らも出向いて状況を把握する必要もあったのではないでしょうか。


広大な世界を統治するためには大変な距離の移動が必要となるため、天空浮舟は天皇の世界統治に欠かせないものであったと思われます。


記録によると天空浮舟は一日に三万二千キロ~四万四千キロを時速千三百キロ~時速千八百キロで飛行したとされ、現代の一般的なジェット旅客機が時速千キロ前後で飛行することを考えるとかなり早かったことが分かりますね。





天皇は原則として在位中に一度は天空浮舟で万国巡幸を行い、新たな即位を世界に知らしめたとされます。


最も古い万国巡幸は上古三代の天日豊本黄人皇主天皇あめひとよもとひのひみいぬしすめらみこと の御代で、この時は中国、イタリア、アフリカ、南アメリカなど七か国を巡りました。


訪問する国や頻度、コースなどに特に決まりはなく、代により様々だったようです。

最も多くの国を訪れたのは上古第二十五代の天津彦火火出見身光天津日嗣天日天皇あまつひこほほでみみひかりあまつひつぎあめのすめらみこと で、世界三十か所をなんと十万年をかけて訪問したとされます。


ここで「十万年!?」とツッコみたくなるかも知れませんが、当時は天皇の寿命も今とは比べ物にならない程長く、そもそも神代の時代の話なので今とは時間軸が異なっていた可能性があります(ので一旦スルーしましょう(`-ω-´))。


この大巡幸に際しては天皇が天空浮舟を三十二隻ほど新たに造るようみことのりしたという記述が残されており、盛大な巡幸であった事が分かります。三十二隻もの船が煌きながら天を駆ける様は壮観ですね。


第二十五代は上古最後の代であり、天変地異が幾度となく地上の人々を襲い各国の民王が次第に力を持ち始め人々の心が天皇から離れていった時代です。

天皇の威光が徐々に失われつつある時代であったため万国巡幸は天皇の威信を回復するためにも盛大に行う必要があったのかも知れません。


万国巡幸はその後神倭十二代の景行天皇の御代まで続きます。*・゚゚・*:.。..。.:*



天の浮舟で天皇が世界を飛び回ったというのが竹内文書がトンデモ説とされる要因の一つになっているようにも思いますが、神々が乗り物にのって地上に降りてくる場面は記紀にもみられます。


日本書紀では天津神あまつかみである饒速日尊ニギハヤヒ天磐船あめのいわふねに乗って降臨されたとされていますし、古事記でも建御雷神たけみかづちのかみ天鳥船神あめのとりふねのかみと共に大国主おおくにぬしの前に現れます。

画像4

古事記や日本書紀のこうした記述は当然ながらトンデモ説とは言われないのですが、こういった場面が歴史学や考古学的にどのよう解釈されているのかというと、、


学術的な世界ではこうした天の乗り物といった類のものは実際に空を飛んだ航空機ではなく海路を水鳥のように速く進む船であったと解釈されています。
当時は陸路の交通網が整備されておらず、今より海面が内陸に入り込んでおり船が大量の人や武器や荷物を一度に運べる最速の手段であったため、とても理にかなっています‹‹(´ω` )。 



しかし竹内文書では天を移動する船を”天空浮舟”、水面を移動する船を”海川舟”として明確に使い分けており、天皇は天空浮舟に乗って地球にやって来たという記述があります。


また万国巡幸の際に通ったとされる経路が地図上に記録されており、その中には空路と海路では異なるルートが示されているものがあります。その記録からその時の巡幸は天皇が自らの天空浮舟に乗って空を移動し、臣下たちは海路を使って移動したものであったことが窺えます。



竹内文書での天空浮舟は明らかに空を飛ぶ航空機なのです。




同じように空を飛ぶ船形の航空機といえばエジプトの太陽の船が浮かびますね。太陽神ラーは昼の間は「マアンジェト」という名の船に乗り天空を航行し、夜は「メセケテト」という船で冥界を移動すると考えられていました。


ちょうど先月の11月25日にエジプトのルクソールでカルナク神殿とルクソー神殿を結ぶ参道の修復完了開通記念式典が行われたのですが、このパレードにも舟形の乗り物が出てきました。これはおそらく太陽の船だと思われます(画像はエジプト観光考古省のYouTube動画よりお借りしました)。

画像3


インドにも古代インドの聖典に出てくるヴィマナと呼ばれる神々の乗り物があります。ヴィマナは無限の距離を自由に飛ぶことができ、高度な兵器でもあったとされます。

『ヴィマニカ・シャストラ』と呼ばれる文献資料にはヴィマナの構造や性能、操縦法などが単なる空想とは到底思えないような緻密さで記されています。

この文献はインドの航空学や機械学の専門家たちによって研究された結果現在は捏造だと結論付けられているのですが、水銀を動力として太陽エネルギーを活用し、機体は燃えることがなく切断も出来ず、透明になるなど現代の科学ではおよそありえない性能を持つところが興味深いです。


          ヴィマナ

画像4

             (出典:Wikipedia)

ヴィマナには船形だけではなく実に様々なタイプがあったようです。下の絵は宮殿型のヴィマナです。面白いですね。乗ってみたいです。

画像3

            (出典:Wikipedia)


他にもコロンビアの黄金ジェットや古代シュメールの壁画やマヤ遺跡、旧石器時代のヨーロッパの洞窟壁画などにも謎の飛行隊を思わせる絵が複数残されているとされ、空飛ぶ航空機の神話などは世界中にみられます。



空飛ぶ航空機があったのだとしたら古代の飛行場はどうなっていたのでしょうか。竹内文書には上古第十四代国之常立くにのとこたち 天皇の治世に

「天皇天空浮船に乗り祖来ケ峯ひ羽飛行登所はねとびのぼりゆくところを、羽根と名付る」


と記された記録があり、天空浮船の飛行場を羽根(羽)と名付けたとあります。竹内文書研究者の高坂和導氏によると羽には平らで硬い大地が幅数十メートル、長さ約二キロメートル存在し、条件として近くに河川があることが挙げられるといいます。河川は高いところからでも見つけやすく変化しにくいので飛行場の場所の目印に最適であったようです。


また日本の地名で『羽』の字のつく地名のある場所は気象的に濃霧の発生率が少なく、そういった地域は超古代の飛行場の跡だった可能性が高いといいます。




羽のつく地名は全国に70箇所程度ありますが、もし皆さまがお住まいの地域に羽のつく地名があったらそこはもしかしたら超古代の飛行場があった場所なのかも知れませんね。‧₊。*・゚゚・*:.。..。.:*





ではまた次記事でお会いしましょう(✿︎´ ꒳ ` )♡︎


この記事の参考書籍:

「超図解」竹内文書/高坂和導著、「超図解」竹内文書II/高坂和導著、神代の神代の話/皇祖皇太神宮頒布書籍