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知性の殻

今日は知恵を得るための5つのルートについて考えていました。これを分かりやすくまとめてみたいなと思っていたのですが、分かりやすくという言葉にはいつも「どこまで?」という疑問が付きまといます。5つのルートは、非物質的なものを認めない人に対しては、どうしても理解させることは不可能です。つまり「分かりやすく」は説明できないということです。
そんなことから、今日は非物質を認めない知性について、自分なりにまとめてみたいと思いました。これは決して、否定するために書くのではありません。

精神世界のことを人に話すか

精神世界のことを学んでいる人は、物質的世界にのみ生きている人と全く話が合わないことは日常茶飯事だと思います。学び始めは特に、周りに分かってもらいたいなどと思って話してしまったり、家族に話して白い目で見られてしまったりという人もいると思います。勉強していると、頭の中が精神世界のことでいっぱいなので、話しているうちについ喋ってしまうということもあるでしょう。

私は基本的には、精神世界に興味がない人には話す必要などないと思うので、たとえば家族の人が「死んだら無だ」という思想を持っていたとしても、そう思いたいならそれで良いし、思考が世界を作りますから、死後、本当に無になってしまっても構わないと思います。
しかし私は精神世界のことを、様子を見ながら人に話したことは何度もあります。それは自分にとって言語化の練習になりますし、何度かそういうことを繰り返していると、相手がどの段階で理解できなくなったかが如実に分かり、これを観察することは案外自分の役に立ちます。

はじめは感性で

精神世界のことをいくら言葉で説明しても、相手がやってみない限り絶対に理解できないのは、はじめは特に、知性ではなく感性で理解するものだからだと思います。
多くの人が、小さい頃は何かしら不思議な体験をしているので、私が少し精神世界の話をすると、自分の子供のころの不思議な体験を熱心に話してきます。けれど、もう少し突っ込んだ話になると、とたんに懐疑的になります。それは、その人にはそれ以上の経験がなく、代わりに物質的な経験ばかりがあるからです。つまり乱暴に言えば、体験していることは受け入れるけれど、していないことは受け入れられないということです。
心は目に見えないけれど、心があることは経験しているから受け入れられる。でも神は見た経験がないので受け入れられない。
この原理でいくと、精神世界のことも経験すれば受け入れられるわけです。

しかし大人になると、なかなか新しいことを真剣に練習しません。乳児が1人で立って歩けるようになるまで一生懸命練習をするようにはやらない。そんなことをしなくても慢性的に生きてゆけるので、大人はいつもどこか不真面目です。死んだあとの道が全然違うということまでは考えてもみません。

見せろ、出てこい、という姿勢

精神世界のことは、いくら話しても知性では分からないというのは、知性が物質的なものによって支えられている人ばかりだからで、見たことがないものは存在すると思ってはならないと、いつも警戒しているように見えます。
塩を溶かした水を加熱しておくと、今まで水の中に何もなかったところに、結晶が生まれます。だから水の中には塩があったということが分かります。
しかしこれを踏まえて、何もないように見えるところにも、きっと何かあるのだと素直に考えられる人が少ないわけで、じゃあ塩みたいに姿を現せと思ったりする。決して、自ら水の中に飛び込んで溶けている塩と同じになろうとしない。

何もないところに飛び込み、非物質と同じ振動になった時、私たちは非物質の存在を見つけます。そのようなことを実際にやってみて、はじめて強烈な印象を受け取った時、それが今までの知性の枠を壊し、だんだん受け入れてゆくことになります。そして知性のほうも徐々に非物質的なことに開いてゆきます。
このように、感性による最初の知性の崩壊がないと、はじめに書いた知恵を獲得する5つのルートは到底理解できないということになります。

時間をかけて理解するものがあることを知らない

微分積分を知らない小学1年生から「微分積分なんてものがあるわけない、あるなら証明して見せろ」といわれても、説明するには小学1年生がまだ知らない方法をたくさん話さなければいけないので、すぐに理解させるのは無理な話です。
精神世界もそれと同じで、説明するにはたくさんの段階を踏まなければなりませんが、さらに情報のみで理解できるものではなく、1年生が6年生になるような心身の成長がなければ知覚できないものだということを知らない人が多いのかもしれません。
これもやはり「今の自分に分かるように説明しろ」という無茶振りで、それでは何も理解できないということになります。今の場所から判断してもすべて間違えるし、知りたかったら踏み込んで、と言う以外にありません。

どう考えても彼らのおかげ

これまで物質的世界にのみ生きている人のことをあれこれと書きましたが、しかし彼らが物質的社会の価値観で一生懸命生きて社会を回してくれているから、私がこっそり修行に励めるということもあり、ありがたい話でもあります。私は彼らがいなければ決して修行に励めないだろうと、いつも思います。すべての人は私であり、私が選ぶことのできなかった人生を代わりに体験してくれていますし、私もほかの人が選ばなかった人生を代わりに生きています。

しかし今回書いたようなことは、勉強を始めた人が、その人の物質的知性の側と、精神世界の側と、両方から必ず感じることだと思うので、一度言葉にしてみたいと思いました。自分の知性の殻がなかなか破れないジレンマや、自分よりもさらに物質的な考え方の人に出会ったときのジレンマ、どちらにも当てはまると思います。

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