2016 立教大学 自由選抜入試 異文化コミュニケーション学部 小論文 模範解答

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 筆者によれば、文化本質主義とは、人々の個別の差異を捨象し、文化についてのステレオタイプな考え方によって、特定の文化のもとに属する人々を同質的かつ一義的にとらえようとする事態である。したがって、筆者は、異文化理解といった場合の「異文化」のとらえ方が、ステレオタイプなものになってしまうという弊害を指摘している。その結果、文化本質主義においては、ある人をその人が帰属する特定の文化の相においてのみとらえてしまうことによって、その人自身を一人の個人として見る視点を失わせてしまうと述べられている。
 こうした、文化本質主義にもとづけば、今後さらにグローバル化が進展し、多文化共生が望まれる社会において、自分とは異なる他者をステレオタイプな理解の範囲にとどめてしまうことによって、異質な他者の異質性そのものを認めたり、理解する道を閉ざしてしまう。それでは、どのように文化本質主義を克服し、望ましい多文化共生のあり方を実現するにはどうしたらよいだろうか。
 異文化理解として、自分にとって異質な文化のあり方や特徴について理解を深めること自体はよい。しかし、文化本質主義のように、その理解を一元的に異文化圏の人々に適用することが問題だと考える。したがって、自分にとっての異質な他者のあり方を一定の解釈や見方によって決めつけるのではなく、一人の人間として「その人」を理解していく必要があると考える。そのためには、多様な他者に出会い、「その人」をその都度理解しようとするコミュニケーションを図ることが重要だと考える。なぜなら、特定の文化圏にいる人々がそうした文化の持つ特徴を必ずしも備えているわけではなく、個別具体的なコミュニケーションによって、人々を理解する以外に他者を理解する道はないと考えるからだ。したがって、「異文化」として特徴づけられる性質は、あくまで概括的なものでしかないことを知り、個別の人間が置かれている状況や環境において、「その人」を理解しようとする姿勢が多文化共生のための第一歩となると考える。
 以上より、多文化共生のためには、「異文化」として特徴づけられるステレオタイプにとらわれることなく、「その人」について知ろうとする姿勢を持つことが重要だと考える。(957字)

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