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心にも栄養は必要である

どうも、POLでPdMをしている伊東です。趣味で森林経営なんかもしています。
全くテックノートじゃないですが許してください!なんでもしまなめくじ!
実はこれの前に2本ぐらい別の書き物を書いていたので、萎みきった気持ちとやる気で書いています。
あとテック感を出すために、写真をいつだかラズパイで作った極厚タブレットとそのミニ版(たしかESP8266と温度計を入れてたはず)にしておきます。これでご容赦ください。

私事ではございますが、最近諸々あってどうも振るわないなあと思います。
その昔、同僚でけっこう追い詰められた状況で、ひとりでしろくまカフェを見て泣いていた人がいましたが、決して彼のことを笑えないななんて思っています。
表層ばかりの浅い世界で、こうもすり減らして、いったい自分はどこに向かうのだろうと、とても絶望的な気持ちになります。

まあだいたいこういう事を考えるのは、睡眠が足りてないとか、あるいは深夜だとか、そういうパターンなわけですが、日中にも同じような感じなのは、さすがにいただけません。
それで最近何か面白いことあったかなと思い返してみると、なんともない事に思われるかもしれませんが、たまたまオフィスにいた同僚と、1階の本屋で一緒に本を選んだことだったように思います。
思い返してみると、好きなように勉強して本を読んでいた高校時代が一番良い時代でした。

自分で言うのもなんですが、僕はかなりの読書家で、蔵書量も相当なものです。
今も昔も、本に思いを馳せてきました。
これを書いた人はどんな人だったのだろう、こんな事を考えていたんだ、こんな夢を持っていたんだ、優しい人だ、怖い人だ、そんな風に。
だって馳せることしかできないから、そんな人と語り合うのなんて、一生に一度あるかないかです。
ひさびさに本棚から何冊か手に取ってみると、彼らが肩を叩き、心配しなくていいと励ましてくれました。
読書は時も場所も超えて、かつての偉人たちと会える唯一の手段であり、本はその場所です。
しかし最近は、あまり仕事とは関係のない趣味の本というのが読めていませんでした。

僕が本を読むようになったきっかけは入院でした。
10代の頃に外出もできずに病棟に拘束された1ヶ月は、自分と世界とを切り離すのには十分すぎる時間でした。
その間、外に出られない代わりに役に立ったのが本でした。
本が僕を世界へと連れていき、様々なものを見て、考え、体験しました。
本が僕の代わりに世界を旅したのです。
それは本が経験を代理するということです。

本は言葉の束です。
言葉の重要性というものを語る人は多いけれど、それを具体的に言える人はそう多くないと思います。
個人的に重要だと思っているのは、結局のところ、人は言葉でしか思考していないということです。
人は言葉があって初めて何かを想起し、考えを巡らせることができます。
言葉はコミュニケーションツールとして以上に、背景には文化的側面があり、人々の思考を形作っています。
だからどれだけ言葉を知っているかというのは、同時にその人がどれだけ思考の幅があるかという事を示しています。
いつだか三島由紀夫が言っていましたが、言葉は言霊となって、僕たちの周りを飛び回るのです。
不思議な話ですが、これは本当にそうであると実感します。
つまり読書は思考の代理でもあるのです。

本は時と場所を越えて世界を繋ぎ、思考を代理し、経験を代理します。
これは教育なんかじゃなく、歴史であり、詩です。
心を豊かにする読書は、心の栄養です。
身体に栄養が必要なように、心にも栄養が必要である事を、決して忘れてはいけません。
そんな風に実感したこの頃ですが、先日このような話を共有したところ、何人かで八重洲ブックセンターに行って一緒に本を見て、最後には買った本を紹介し合うという会が入ることになりました。
久しぶりに、本屋に入れば岩波文庫をまず見るような人たちで意気投合できそうで、非常に楽しみです。

そんな雑感を、今回のノートとして、書いておきます。

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