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再生讃美曲考察『大場ななの強がりと小さな願い』

再生讃美曲のあらまし

 『再生讃美曲』は『劇場版再生産総集編 少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド (以下:ロロロ)』の主題歌となった曲である。

ロロロ自体が、TV版の総集編に『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト(以下:劇ァ)』に繋がるような意味深な新規カットを加えた構成となっており、TV版のシナリオとはまた別の印象に包まれた物語であった。
 再生讃美曲はそれを象徴するような曲である。そして聴けば聴くほど大場ななの感情に溢れた、大場ななを歌う曲なのではないかと考え始めた。
 その要因を、友人氏の音楽的知見による解釈を交えながら以下の構成で考察していく。
※構成上、ロロロ、劇ァを視聴済みである前提で話が進むため、読む際は注意されたい。

1.アーメン終止:在るべくして在り過ぎる讃美曲

 この曲の中ではサブドミナント終止と呼ばれるコード進行が前奏の段階から随所で見られている。
 サブドミナント終止は別名アーメン終止と呼ばれ、その名の通り、讃美歌の「アーメン」のフレーズに使われるコード進行である。この曲はコード進行からも"讃美歌"であることを主張しているのである。
 つまりこの曲には、歌詞だけでなく、作曲に至るところにも讃美歌としてのアイデンティティを有した曲であるといえる。

 筆者はこの事に対し「あまりにも体を表し過ぎているのではないか」という感想を抱いた。

 ここではあまり結論を急ぎたくないが先に話しておくと「大場ななには再生(再生産 = 輪廻)を讃美しなければならない理由があった」ことがここに表されているのではと考えている。


2.「私」は誰? 私は大場なな

選ばなかった過去たちへ
静かに捧ぐ讃美歌を

"『選ばなかった過去たち』が誰であるのか"
 この問いが一番多くの解釈があるのではと感じている。曲中に登場する『私』という一人称を"私 = 舞台少女"と解釈し、『選ばなかった過去たち』とは『舞台俳優になるため、選ばなかったパラレルの自分』なのではないかと初めは考えていた。『舞台俳優という夢のため、自らの可能性を一つに絞り、選択しなかったあり得たかもしれないパラレルの自分へ捧げる歌』ともとれるので1番の歌詞では特に矛盾がないようにも見える。

 しかし曲全体を通してみると『私』という一人称が舞台少女では定まらずあまりいい解釈ではないと気づく。

 そもそも、レヴュースタァライトの曲はほとんどがレヴューに関する曲であり、戦いの中の現在進行形な感情を綴った歌である。TV版のOP,EDすら歌詞と感情の一致した聴きやすい曲であり、再生讃美曲だけが"直球の感情勝負"ではない何か裏のあるような曲に筆者には聴こえるのである。

あの日の私の続き
未来は笑えていますか

 あの日、とは『選ばなかった過去たち』と袂を別った日と解釈したい。であるなら、その続きとは別ったはずの過去の先に続く未来のこと。その未来に"私は笑えているか"と問う行為。これは選ばなかった過去に対して、「こっちの方がいいでしょ?」と自身の選択に満足気な様子にも受け取れる。

 自分の運命の舞台に執着し、その為にあらゆる手段を尽くして妥協を見せず、作中では一切の躊躇いも見せない行動をしていた人物。一人いるではないか。

───大場ななだ。

 かっこよく言ったものだが、実際歌詞に「私」が入るパートは必ず大場ななが歌っている。そういうことだ。


3.「選ばなかった過去たち = 大場なな以外がトップスタァになったかもしれなかった世界」

 前項の話を踏まえ、1番の歌詞を再解釈する。

選ばなれなかった私以外の舞台少女がトップスタァになったかもしれない世界に歌を捧げる。この素晴らしき運命の舞台(第99回聖翔祭「スタァライト」)の再演という歌を。

不確かな可能性(自分がオーディションに勝たなければならない)に賭け、
未来(2年次以降の世界)を燃やして運命の舞台を再生産する。

私はまだ何者でもない、舞台俳優育成学校に通うただの高校生。
幸せ(運命の舞台)はどこにあるのだろう。
分からない。手に届かない運命の舞台。
だからわたしには眩しい。

 といったところではないだろうか。筆者の解釈では『選ばなかった過去たち』は『大場なな以外がトップスタァになったかもしれなかった世界』ということになる。
 再解釈では『不確かな〜だから眩しい』までの歌詞がオーディション中の戦いに身を投じる大場ななの心情を綴った言葉であると解釈している。


4.歌詞に込められた大場ななの心情とメロディが進むにつれて膨れる違和感

 『再生讃美曲』を聴いてどのような印象を抱いたか、という点からこの曲が持つ違和感とその正体について考察していく。

 筆者はこの曲を初めて聴いた時から漠然と「怖い」という印象を抱いた。しかし、歌詞を一部一部切り取って見返しても、何度聞き返しても「怖い」と感じる要素に気づけなかった。曲調は明るいし、『星々の絆』のようなドスの効いた声もしないのにである。
 ただ漠然と「何かを盲信しているかのような狂気じみた怖さ」を聴き終わる度に感じ続けていた。
 この理由について、曲の歌詞を順に追って解釈しながら考察する。

1番:運命の舞台に執着する大場なな(TV版7話)

 1番の歌詞では幸せ(運命の舞台)を執拗に追い求めるTV版7話の大場ななの心情を綴っているという話を前項でもした。

2番:隣の芝が青く見える大場なな

 2番の歌詞になると1番とは異なる点が二つある。
一つは「この願いは合っていますか?」と何かに対して強い不安を感じているということ。
 そしてもう一つは「私」が存在しない点である。2番の歌詞の主となるのは"私たち = 舞台少女たち"である。
これらを踏まえて解釈すると以下のようになる。

遥か遠くまで輪廻が続いていることを舞台少女たちは知らない。そしてそれが終わろうとしていることもまた、知らないのだ。それとは関係なく舞台少女たちは自分たちの幸せ(トップスタァになる)を求めてオーディションに身を投じる。
理を知っている大場ななだけはこの舞台少女たちの願いは合っているのだろうかと疑問に思う。
そんな大場ななにとっては、傷付き迷っても立ち上がる舞台少女たちの姿は眩しく見えたに違いない


世界と同一視された大場なな(舞台の性質と大場ななが知った「スタァライト」の正体)

太古の月 金に染める稲穂の群れ
鳥のように らんと鳴く竪琴
星夜に降る 大粒の粉雪になり
海の底に しんと眠る真珠となる

そう 遥か遠い惑星(ほし)の息
それらすべて私

 ラスサビを前に、これまで大場ななに限定されていた「私」という一人称は森羅万象にまで広がってしまっている。

 筆者が感じたこの曲の違和感はここから始まる。

 なぜこのようなことが起こり得るのか。これを紐解くためには、この作品内での物語(舞台)の性質について、考察している必要がある。

 ロロロの最後のシーンで、”古い身体を燃やして再生産することが舞台少女そのものであり、スタァライトそのものである"と言及するシーンがある。そこでのキリンのこのセリフが非常に意味深な内容になっていた。

スタァライトは作者不詳。あなたたちが終わりの続きを始めた。ならば───
分かります。

 このセリフに続くシーンでは突然血にまみれた赤い星、血を流す舞台少女が流れる。その次に大場ななから発せられたセリフは「舞台少女の死」であった。
 舞台少女の死とループについてはgashu_star氏の考察を元に筆者も考察し理解を深めたため、こちらをご覧になってほしい(これだけで考察を1本書けてしまうので今回は省略したい)。

”しかし、それで終わらないのがこのスタァライトという作品の恐ろしいところです。実は、彼女たちのキラめきをもってしても、「舞台少女の死」を回避できないケースがたった一つだけあることに気づきます。それは、「舞台の死」が実現してしまった時です。
「舞台少女は舞台に生かされている」。これはこの作品の根幹となる言葉です。
どんなに厳しいレッスンを積んでも、どんなに素晴らしい歌声を響かせても、どんなに素晴らしい演技をしても、そこに舞台が無ければ、舞台装置は動きませんし観客の歓声は起こりえません。
では、舞台が死ぬというのは実際にどういうときでしょうか?その答えは、「舞台(作品)の作者の意図が忘れ去られたとき」、です。総じて、作者の伝えたいことが受け手に伝わらないとき、芸術作品は意味を為さなくなります。つまり、99期生にとっては、「スタァライト」という作品の本来の意図が忘れ去られたときに、その舞台は死んでしまいます。”

物語のテーマ(主題)というものは常に作者の意図であり、作り手から受け手に向けたメッセージでもある。それが失われた時、物語は本質を失い作品としての死が訪れる。
 そして純粋な願いによって繰り返された運命の舞台の中で、大場ななは次第に「スタァライト」が持つ本質に気づくいていくことになった。

"ずっと昔から遥か未来まで、この悲劇を繰り返すこと"

 これが大場ななが気づいた『スタァライト』の正体である。ただ、筆者はロロロ最後の大場ななの反応から、ループを抜け出した先が舞台少女の死であることには気づいていなかったと考えている。
(劇場版では知っていたかのような物言いをしているので本当のところは分からない)

 大場ななは自分が運命の舞台だと思っていた「スタァライト」が「悲劇の繰り返し」であることに気づいてしまった。それ故に「どうしたらこの第99回聖翔祭がより良いものになるのだろうか」という試行錯誤によって運命の舞台を悲劇ではない幸せの繰り返しにしようと試みたのだ。繰り返すごとにその想いが色濃くなっていき、作者不詳の物語に大場ななの色が添えられることになる。世界(物語のテーマ)に影響を与えたのだ。

 こうして「スタァライト」の作者の片棒を担ぐ形になった大場ななは世界と同一視されることになったのだ。

 それ程に、大場ななはスタァライトを繰り返し続けたということである。"運命の舞台への執着"が"悲劇を喜劇に変える"という意志を生み出した。
 大場ななは再生(再生産)を讃美せざるを得なかった。たとえ繰り返す運命の舞台が悲劇であったとしても、隣の芝が青く見えたとしても。
この大場ななの意志の強さが「ただの讃美ではない」という違和感をもたらし始める。

追記(2021/08/15)

ただ、筆者はロロロ最後の大場ななの反応から、ループを抜け出した先が舞台少女の死であることには気づいていなかったと考えている。
(劇場版では知っていたかのような物言いをしているので本当のところは分からない)

 こちらについて、劇場版での大場ななの物言いを思い出したので根拠として補足しておく。大場ななが舞台少女の死を見たのは「再演の果て」であると言っていた。この再演の果てがロロロの7パート目、キリンと大場ななが会話をするシーンであったと考える。
追記終わり

5. 狂気に堕ちたとしても、大場ななは意志を失うことはない

救いを求める大場なな

選ばなかった過去たちへ
静かに捧ぐ讃美歌
『こぼれてく未来が あの子のキラめき』
あくまでも仮定


 こぼれてく未来は”選ばなかった過去たちと別ったあの日の続き”のこと。「笑えてる?」と切り捨てたはずの未来にキラめき(幸せ)はあるかもしれないという仮定の話をしている。
 これまでの解釈をからこの「あの子」も大場ななと解釈したいが、『こぼれてく未来が あの子のキラめき』のフレーズを歌っているのは大場なな本人なのである。

 一度話を逸らして、実はこのフレーズの間ずっとソ♭という音が流れ続け、フレーズの終わりと共にファという音階へと解決する。このソ♭→ファの音の解決もアーメン終止というコード進行である。
 通常、フレーズの間ずっと同じ音を鳴らし続けるということは手癖では作れない。何かしらの意図があってのものだと考えられる。そうであるならば、このフレーズは長い長い祈りなのではないか。

いつか誰かその言葉で
その温度で私を救うの

 「繰り返し続ける孤独で冷たい世界から、誰かその祈りで私を温めて連れ出してはくれないか」という大場ななの救いを求める言葉。

廻り廻る

ああ 私たちは今何処へだって
夢を宿し 行ける

 いつか来るその日を夢に宿し祈りながらまた廻る......廻る......。
 こぼれていた未来にもキラめきはある。宿命を知らぬ舞台少女(大場なな以外)は今回(のループ)も夢を宿し何処にだって行ける翼を手に入れるのだった。もちろん、この夢を宿した一人の舞台少女によって祈りの言葉は大場なな届けられることになる。

人には運命(さだめ)の星がある。
綺羅星、明け星、流れ星。
己の星は見えずとも、見上げる私は今日限り。
99期生、星見純那。掴んでみせます、自分星!

 大場ななの祈りは星見純那自身の名言だった。星見純那のキラめきはこぼれてく未来の先にある。あの子とは「星見純那」のことだったのだ。

 だがこの祈りも華恋とひかりの運命によって「スタァライト」の刻が進むその日まで、まだお預けである。

追記(2021/08/15)
 大場ななの救いを求める言葉として表した以下の歌詞、

いつか誰かその言葉で
その温度で私を救うの

 フォロワー氏の「劇ァの大場ななには偉人の言葉が届かなかったから”温度”なんだね」という一言でまた新しい発見があったので記しておく。
その言葉で救われた大場なな→TV版
その温度で救われた大場なな→劇場版
 再演を抜けたその時、星見純那の言葉によって大場ななは一度救われた。しかし、再演の果てに舞台少女の死を見た大場ななは『wi(l)d-screen baroque』の中であの子(星見純那)とのケリをつけるため対峙することになる。その中で大場ななの再演を終わらせ、救うことになったのは折れない心で燃え続けた星見純那の情熱の熱さ、その温度だったということである。
 「じゅんななな~~~~~」という気持ちで筆者は彼女たちの燃料になった。
追記終わり


ラスサビで花ひらく大場ななの狂気

 1サビとほとんど歌詞が変わらないわけだが、物語が進むことでその意味は変化している。
ただ一人、スタァライトの理を知った大場ななは運命の舞台の上で悲劇を喜劇に変えることを選んだ。もはや今の運命の舞台は幸せでもなんでもない。
 だが、いつになっても大場ななを救うその祈りもまだ訪れない。「繰り返すことが自分のキラめきなんだ」と言い聞かせるしかないのだ。

「これが正しい選択である」と、「これが幸せ(自分が最もキラめく場所)の最善手である」と思い続けることでしか自分を保てていないのではないか。大場ななの怖さ、狂気さはここにある。

 強がることでしか自分自身を肯定することがもはやできない状態である。それでも自分を見失うことはない、強く固い意志が自身と舞台少女を永遠の舞台の上で生かし続ける。
 呼応するように、この曲の違和感はラスサビで頂点に達する

表情を一瞬失ったラスサビ

 ラスサビは1,2サビと比べて転調して盛り上がりを表現している。しかし聞く人によっては狂気のような浮遊感ある居心地の良くない音にも聴こえただろう。
 その要因は「ああ私たちは何者でもない」というボーカルのフレーズに込められている。

 このフレーズが空虚5度(完全5度)と呼ばれる表情のない空虚な響きで奏でられているからだ。音楽の世界では同時に鳴らす二つ以上の音の組み合わせをコード(和音)と呼ぶ。その音の組み合わせに空虚5度というものが存在する(とここでは認識してもらえればいい)。
 ◯度という表記はその和音の中で、一番低い音(根音)を1としてどれだけ音階が上がっているかを示すもの。空虚5度とは1音、5音(根音と5度上の音)の組み合わせによって構成される。ここに3音が入ると三和音と呼ばれるものに変わったりする。
 5度の関係となる音たちは完全音程と呼ばれ、1音と5音で構成されるこのコードもそれに含まれる。そのため本来は完全5度と呼ぶのが適切である。しかしこれらの音は音に主従関係を見出すことができず、結果的に空虚な響きになるため、完全5度は別名として空虚5度と呼ばれる。

 つまり1音と5音だけでは音の色味を作り出すことができず、無表情となってしまうというわけだ。

 このサビが空虚5度の響きとなっているのは、ラスサビ全体が1,2サビよりも半音上がるように転調しているにも関わらず、入りの「ああ私たちは何者でもない」というボーカルのフレーズだけが3度も余計に音が上がっているからだ。
 ここだけ、ハモりパートしか存在しないのである
友人氏によると、「1,2サビで2回サビを繰り返したことによってサビのメロディは聴者の耳に記憶されている。空虚な音を奏でるハモりパートと聴者の補完によってメロディが完成する構成で、より盛り上がりを作ろうとしたのではないか」という解釈であった。

 このような構成によってラスサビの入りには表情のない浮遊感がもたらされた。ラスサビはそれまであった表情を一瞬失い、必死に隠してきた裏の顔を見せてしまうように。
 この裏の顔こそ大場ななの狂気であり、その片鱗を垣間見てしまったことで、違和感の正体が狂気であることに気付いてしまう構成だ。


6.『wi(l)d-screen baroque』に繋がる点

 全体的に辛さを隠して耐える大場ななという印象が色濃い再生讃美曲だが、この曲にはしっかりと次作である劇ァに繋がる希望も込められている。

ワンフレーズだけ伸びた「生まれ変わる」

あまりに不確かな可能性を
追いかけてあの子は
何を燃やして 生まれ変わる

このフレーズの「生まれ変わる」だけが5小節目に伸びている

 大抵の曲は偶数小節で一区切りのリズムで進んでいく(ちなみに一つ前の「選ばなかった過去たちへ〜笑えていますか?」は8小節である)。
 フレーズの量も特筆多いというわけではなく、「何を燃やして」というフレーズの前後に溜めを作って「生まれ変わる」というフレーズを意図的に5小節目に伸ばしているのだ。

 これは次の小節(次の舞台)で生まれ変わる必要があることを暗示している。

 華恋とひかりがもたらした結末、輪廻するというテーマの改変によって戯曲「スタァライト」が持つテーマは失われた。テーマの失われた舞台に立っている舞台少女たちを待つものは”死”だ。

 終わりの続き、戯曲『スタァライト』の新たな最終章『wi(l)d-screen baroque』。作者不詳のスタァライトの続きを舞台少女たちで紡いでいかなければならない。

『wi(l)d-screen baroque』のキーワードが”生まれ変わること”なのだ。


私たちはもう舞台(『wi(l)d-screen baroque』)の上

生き残る糸口を大場ななは既に知っていたのだ。


最後に

 再生讃美曲はスタァライトを繰り返す選択を盲信するに至るまでの大場ななの心情と救われたいと願く気持ちが綴られた曲であることを考察した。

 今回の考察にあたり、協力してくれた友人氏にまず感謝を述べたい。音楽的知見のない筆者が再生讃美曲に対して感じた感覚・感情・疑問について、紳士に耳を傾け、丁寧にかみ砕いた内容で解説していただいた。彼の知見なしにはこの考察は完成しえなかった。

 この考察はロロロパンフレット未購読の筆者による考察である。再販を待ちながら楽しみにしている一人だ。もしパンフを読んでいい考察が浮かんだら、その時はこの考察に追記をするかもしれない。

 そして、ロロロの主題歌にふさわしい再生讃美曲を手掛けたクリエイターたちに最大限の感謝を申し上げたい。最後に作曲を担当した佐藤純一さんのnoteを引用して締めさせていただく。

 この考察が舞台創造科の皆さんの一助になれば幸いである。

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