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失われた時間

ビデオテープのこと第三回。続きです。

ビデオテープの処分は「その他プラ」だということは判明。では、早速捨てましょう。

この地区の「その他プラ」収集日は週に1回。収集場所に持って行けば収集車が来て回収してくれる。透明の袋に入れて(何が入ってるか判るようにね)置いておけばいい。確かケース付きの状態で出すようにと、市役所のホームページに書いてあった気がする。

とは言え、何百本も同時に出すのは考えもの。常識的なルールとして、1回に出すゴミは1世帯2・3袋じゃなかろうか。

みんながみんな一度に10袋とか出していたら、来てくれた収集車だってすぐ満杯になって、収集場所と処理場とを行ったり来たりになってしまう。そうなれば、収集コース後半の地区は、いつまで経っても集めに来ないぞっ!と怒り出すだろう。と言うか普通に迷惑だし。

基本的に大人の対応を心掛ける(大抵は上手くいかないけれど)自分としては、こんな時は時間をかけて小出しにするべきと考える。なので、1回あたり30~40本と決めた。マイルールだ。

単に世間体を気にしているだけのような気もするが…

そんな訳で、15~20本ぐらいであれば、余裕をもってしっかりと口を結ぶことができる大きさの透明プラ袋を用意した。「容器包装プラ」に「その他プラ」を入れて出す。何だか奇妙だ。

さて作業開始。まずはケースを手に取る。テープを取り出す。シールが一緒に出て来る。タイトル用のシール。これは燃えるゴミだろう。なので別に捨てる。そうゆう風に指示された訳じゃないけれど、自己判断で分別する。これはマイルールというよりオフィシャルルールの遵守にほかならない。

次にテープに貼ったシールを剥がす。これはそのままでもいい気がするが、自筆手書きで書いているので、なんだかそのまま捨てるのは忍びない。自分の足跡やら痕跡を無造作に捨てるのは、どうにも気落ちが落ち着かない。

でも、これが容易には剥がれない。古いものは粘着成分が劣化して剥がす前から勝手に剥がれているが、新しいものほど剥がれない。我が国の接着剤は優秀だ。隣国製かもしれないが。

爪を立てて頑張って剥がしてみても、表面一部だけが剥がれて、いかにも「剥がそうとしたけれど剥がれないので諦めました」みたいに、中途半端に残ったりする。

この状態で捨てるのは、捨てるにしても美しくないし、かえって寧ろ忍びない。

爪も痛くなるし、時間もかかるし。結局、剥がれかけていて容易に剥がせるもの以外は剥がさないことにした。背中部分のシールを剥がさないのだから、当然お腹部分の四角いシールも剥がさない。きっと更に剥がれないことだろう。

作業を続ける。テープを手に取る。ケースからテープを出し、シールを捨ててケースにテープを戻す。その繰り返し。その時、自然とシールに書かれているタイトルやメモが視界に入る。

そこには、映画のタイトルやコンサートのタイトル、ドキュメンタリーのタイトルなどなど、見慣れた自分の文字で書き綴られている。ちなみに水性ボールペンで書いてある。変色しにくいのだ。我ながら微妙にオタク体質であることが伺われる。

古いものにはナンバリングもしてある。そうだ。思い出した。記憶が蘇る。最初の100本ぐらいまでは、内容を表に打ち込みファイリングしていたのだ。完全に忘れていた。意外に几帳面と言うか、神経質と言うか、たぶんオタク体質なのだ。

当時はパソコンを使い始める前で、所有していたワープロ専用機の表作成機能を駆使し、コツコツとファイリングしていたんだっけ。

それにしても数多くのタイトルが次から次へと目に入る。名作あり、トンデモ作あり、謎作あり…

かつては情報をキャッチしたらすかさず録画予約。テープの録画可能時間と放送時間を比較して、確実に録画すべく頑張った。それでも、番組表での発見が遅くて録画が間に合わなかったり、充分検討したのにテープが足りずに作品終盤のクライマックスを撮り損ねたり、そうやって無駄になってしまった分も含め、どれだけの時間と労力を費やして来たことか。

それなのに、結果として録画過剰。「観る」<「録る」。いつの頃からか、録った時点で満足し、作品を観た気になってしまうようになっていた気がする。実際には、全録画の半分ぐらい観ただろうか。当時はレンタルビデオも相当頻繁に借りていたし、当然のことながらTVから撮ったものより有料で借りたものを優先して観ていた。

やっぱり半分も観ていないように思える。録画に費やしたあの時間は、いったい何だったんだろう。

そんなことを考えていると、捨てようとしているテープの1本1本が堪らなく愛おしくなってくる。そこに書かれているタイトルから、作品の内容を想起し、束の間の感動に浸る。観ていない作品は、あらすじの記憶を呼び覚まし、観たような気になろうとする。

そして同時に、そこには間違いなく過去の自分が投影されている。タイトルの行間から垣間見えるのだ。

過ぎ去った時間は無駄な時間だったんじゃないかと後悔しつつ、今また新たに、無駄な時間について考えることで無駄に時間を過ごしている。 ささやかなる負のスパイラル。

でも、なにひとつ生産的ではないとしても、こうやってノスタルジックな気持ちに浸ることは、時として心の栄養だったりもする。ただ単に「無駄」ということでは片付けられない、大切な時間が並行して流れている。

あぁ、身辺整理は心の整理。難しい。つくづく、自分には断捨離は向いてないと思う日々が、ゆるゆると過ぎ去って行く。