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「あなたが忘れられない日」

日頃拝聴しているネットラジオ番組では、毎回趣向を変えたテーマで投稿が募集される。

もとより文章を書くことが好きな私は(だからこうして書いているのだけれども)、示されるテーマに合わせて投稿文を推敲することが、日々の楽しみの一つとなっている。

とは言え、ネタの抽斗が乏しい人間ゆえ、毎回毎回納得出来る文章が書ける訳でもない。基本、フィクションは投稿したくないので、テーマに合致する経験がなければ書けないのだ。

まぁ、そういうスタンスだから書けないからと言ってダメージを受けることもあまりないのだけれど、先日は大きなショックを受けてしまった。

その時のテーマは、今回のタイトル「あなたが忘れられない日」だった。

半世紀を余裕で越えるくらいに生きて来たのだ。忘れられない日のひとつやふたつ、十や二十、百や二百ぐらいあったって罪にはならない。

いや、内容によっては罪になるか…。

いやいや、罪になったらなったで、それこそ「忘れられない日」となるに違いない。

要するに、良くも悪くも思いつかないのだ。

これは思いの外ショックなことだった。

「忘れられない思い出」だったら少しぐらいはある。いや結構ある。そしてそれは、概ね恥ずかしい思い出だ。

長い時を経ても忘れ得ない、思わず赤面したりハッとしたりゾッとしたりする内容ばかりだ。

そうか、だから「忘れられない日」が思いつかないのか。

忘れられない思い出が恥ずかしいものばかりだから、それを象徴するような記念日など当然ながら思い出したくもないわけだ。

きっとそうに違いない。これは純粋に防衛反応だ。

しかし、果たしてこれって自分だけのことなのだろうか。

誰にとっても、楽しかったり嬉しかったりする思い出よりも、恥ずかしかったり辛かったりする思い出の方が記憶にいつまでも残留するものなんじゃないだろうか。

「はじ」という言葉を表す文字をネットでザっと調べてみた。

诟、垢、恥、辱、耻、羞、惭、愧、詬、訽、媿、慚、慙

随分といろいろあるようでいて、真面目に調べればもっと他にもありそうだ。もしかしたら一文字に限らず、地名や人名まで含めれば二文字や三文字でも「はじ」の読みはあるかもしれない。(そう思って少し調べたけれど三文字以上は見つけられなかった)

そして、これらの文字にはそれぞれ異なる意味合いがあって、一つひとつ見てみると「はずかしく思うこと」と「はずかしい思いをさせること」に二分出来そうだ。

おそらくは、思い出としてしっかりと残るのは前者なのだろう。後者は他者の思い出になってしまうのだから。

そして、「はずかしく思うこと」にも、自分自身の行為に関わる場合と他者の行為から受ける印象である場合とがあるように思う。

勿論、忘れ難いのは自分自身に関わることだろう。

一つひとつの「はじ」の思い出を書き連ねれば、さぞかし大量のnoteを積み上げられるに違いないけれど、そこまで自分の首を絞める趣味はない。殆どが墓まで持って行くべきものだし。

だから、「私が忘れられない日」を書くことは、未来永劫、恐らくないと思う。

書いちゃダメだよ。