他人の自尊感情に配慮できるか?自尊感情×配慮(反比例)

結論:・前提として、人は他人に興味が無いはず(保守的価値観)。
   ・なので、自尊感情が高い人には配慮を行わない(自尊感情を高める社会的・精神的必要性がない)
   ・よって、自動的に社会的生物である人間は、他人の自尊感情が高まっているときには配慮しないし、逆は配慮する。反比例を描くはずである。


なお、これから書くことは身内向けに出す考え方の一つで、公を代表する考えじゃないよ。あくまでも考察の一つだと考えてほしい…。

本文:
 他人の自尊感情に配慮、って普通考えないよね。他人は他人で、むしろ自尊感情が落ち込んでる時に他人にも自分にも、自分の自尊感情を大切にして欲しい、自分を大切にして欲しいって思うし、他人の自尊感情を下げようとする人もいるし。つまり、人って他人の自尊感情にそれほど興味がないと思うんだ。
 でも反証として、幸福権とかセルフエフィカシーとかマイノリティとか、他人の自尊感情に配慮した社会的概念が多々あるよね。それって多くは「必要だから」作られたよね。必要だからってなんだろう?僕は、いじめという背景が必要性を生んだと思っているよ。
 とある人達の自尊感情がすごく低まっていて、かつ他者の自尊感情を低めることで自分の自尊感情をあげようとする人々がいたとする。些細なきっかけで他人を貶す人々が、他者の属性のステレオタイプ化をして、結果いじめにつながって自尊感情が下がったか、それとも自尊感情が下がってる人が社会的報復リスクなど低いから攻撃したのか…鶏卵問題あるけど、とりあえず「社会的地位を貶める人間関係システム」があると思うよ。
 すると、被害者からどんどん自尊感情が失われ物理的にも悲惨なことになるよね。もし、世界中の人々が他者の自尊感情に配慮していなかったら、その人達は死ぬよね。でもそうなっていないし、なっているところもある。これはなんだろう?
 僕は更に考えて、自尊感情と配慮って反比例しているんじゃないかって思ったよ。じゃあまず自尊感情が高まっている時に、配慮が低まる根拠兼哲学についてお話するね。自尊感情が高まっているシチュエーションとして、大企業で働く自分のしたいことを仕事にできている人を例にあげよう。大企業で働くリア充という解釈でいいよ。そういう人って、たいてい自尊感情が高いよね、なぜなら自己一致しているから。自分の現在と理想が、たとえ理想高くなっても追いかけるポテンシャルという現実を持っているからね。病気になったら違うかもしれないけれど…そういう人を想定する。つまり、めちゃくちゃ自分でやりたいことができてる人。こういう人は周りの人から、時々疎まれたり配慮されることは、少ないと思うんだ。
 配慮をどんな定義で決めるか、という問題もあるけど、今回はその観点(絶対基準)ではなく、もう片方の自尊感情が低くて配慮が高い場合と比べる観点(相対基準)で考えてみようと思う。そうすると、例えば自己一致できてる人は友人関係における金銭的融資が受けにくかったり、社会的返報の期限がすごく短かったり、無条件で愛されたりする機会が薄いよね。社会的に冷たい目で見て、自分でお金稼げるポテンシャルがあるのだから…あるいは融資を受けても、人間関係の土台として使われちゃう。愛されない。でもそういった自己一致できてる人は、悲しい存在かといえば明るく見える…考えると、多分「スタンドアローンな人間関係」があるのかな、と思った。冷たい社会の人間関係の見方だけど、自己一致できてる人はそれぞれがお互いを配慮せずに働いていて、働いた結果が偶然重なった時に偶然お互いを助け合うだけで、特段意図してそうしているわけではない。だからいつでも戦争できる。でも戦争はコストが高いし持続可能性もないから選ばないというだけ(自己一致してる、現実をよく見れるからその選択を取らないし…)。その人達は冷たい人間関係の中で生きていて、結果が重なって成立する世界で生きていて、だからこそそういう結果が見えないと不安なのかもね。人間はそもそも人間関係を欲する社会的生物だから、それは耐えられない。だから結果を自分にも強制するし他人にも強制する。そうでないと他人を認知できないから…。原因帰属の仕方、自尊感情の高さも、もしかしたらそういう不安と相互作用で発生しているのかもね。
 次に、自尊感情が低まっている時に、配慮が高まる根拠兼哲学について。これは上を読んだ人ならわかると思うけど、自己一致が低い人達に与えられるものといえば、政府上の融資や支援、技術的な支援による持続可能性の提供なり、様々な形で支援されることが多いと思う。また、少し冷たい目で見て、何かしらの社会的返報を期待されているとしても、その期限は即時的ではなくとても長い。将来、私の国に貢献してくれたら良いよ~みたいな、長く友達関係続けて戦争国として戦わない約束しようね~みたいな。争いを避け生産を好むみたいなね。
 ただ人間関係という観点を考えるにあたっては、条件付が必要だと思う。細かいことを考えるならば必要だと思う。つまり、虐められた人たちは各々の境遇を知らなければ、お互い自尊心を下げる冷たい人間関係を構築し始めるということ。例えるなら、井の中の蛙が争い合っている構図になる。これはちょっと脱線するけど、自尊感情が低い人は総じて、現実をうまく見れない。心理的視野狭窄の状態になって、眼の前がうまく見れない。デッサンをした人の絵とデッサンをしてない人の絵を比較すると、物をよく見る力がちがうというよね。そういった形で、我々は自尊感情が低い場合には、不安になる要因を回避しようとして、自分を守ろうとして世界への目を閉ざす…傷つかないからね。話を戻すと、そういう「井戸に居る」ことを自覚して、井戸を登ろうとする人じゃないと他者を尊重することは厳しいかもしれない。証明されてるかは知らないから絶対視しないでほしいけれど…。まとめると、自尊感情が低い人でありながら、自分は今自尊感情が低いと理解できる人同士じゃないと、お互いを直接的に助け合う人間関係は発生しにくいかもね。つまり、配慮は自尊感情が低いと自覚できる人のみが可能である、ということになる。あれ…最初と言ってたことが違うぞ、よく考えたら、自尊感情と配慮は反比例という話だったよね…なんだか自覚っていう別の原因が入ってきていない?というお話は、とてもそう。だから今の話は豆知識、ケースバイケースな事例にあった時に身構えるための知識、として捉えてほしい。
 実を言うと、自尊感情が低い時に配慮があるはずである、という考えは、正直自信がない。冷たい視点で見ると人は保守的であるはずだから、自分が崩れてる時に他人の崩れを助けよう、とはあまり考えがたい。他人を助けたくなるときこそ自分が崩れてるときとか、落ち込んでる人に共感するために手助けをするという観点からなら述べられるし、十分理由になると思う。けど、僕はその哲学をあまり保有できていないから、この考えに自信を持てないのだと思う。でも、楽観的な考え方を持っている人は、これは納得できるのだと思う。逆説的に言えば、楽観的というのはある意味、現実をうまく見れていないから、自尊感情が低いのかもしれないね…。自尊感情が低いことが社会的に精神的に悪である、とは必ずしもそうではいえない(メリットも有る)し、自尊感情が低いことは悪いと考えること自体がステレオタイプ的だし、自尊感情が低いと現実をうまく見れていないという事実を実証されているかわかんない(されているはず…)から、なんともいえないけどね!
 自尊感情が低いと配慮ができる、されるはずという見方は、以上の訳でうまく捉えられないかもしれない。ある種、みんなが言う「別世界で生きてる人」を、自尊感情の観点から見たときの正体なのかもしれない。究極的な配慮をもししたいならば、別世界で生きてる人にも配慮できるよう自分の状態や価値観を、俯瞰できるようになるのが、その道なのかもしれない。
 まとめると、我々は他人の自尊感情が高いときには配慮しない、一方で他人の自尊感情が低いときには配慮する。つまり反比例になっているはず。ただし、もしかしたらミクロな社会…うーん、反比例の曲線を微分した範囲になっていくと、ケースバイケースを考えると、個人のメタ認知が重要なファクターになってくるのだと考えるよ。


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