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3人の退場

 第32話「災いの種」の冒頭は北条家の沈鬱な家族会議で始まる。
危篤状態から驚異的な回復を遂げた頼家(金子大地)に、妻子と舅一族全てを一気に攻め滅ぼしてしまったことをどう話せばいいかという究極の選択を迫られているからである。

 結局はそれが一番悪い形で伝わってしまい、当然頼家からの逆襲が行われた結果、3人の退場が出ることになる。

 仁田忠常(高岸宏行)、比奈(堀田真由)、そして前話までは生存していた一幡(相澤壮太)である。

 まずは仁田忠常(高岸宏行)である。

 史実では、つまり『吾妻鏡』における忠常は、自分が北条の命で比企能員を謀殺してしまった結果、頼家からは北条討伐の命も受けてしまい、北条から謀叛の疑いをかけられて、時政邸を出て御所へ戻る途中で殺されている。手を下したのは加藤景廉という御家人で、あの山木兼高にもトドメを刺してしているほどの忠常以上のヒットマンとして名を挙げている。作中では省略されていたが。

 また『鎌倉殿の13人』のガイドブック後編は32話まで記されていて、視聴者はある程度、忠常の最期は知っていて、それが史実と異なることも認識しているのだ。

 拙稿は32話を観て記しているのだからネタバレでもなんでもないが、ガイドブックでは頼家にも北条にも追い詰められた忠常が自ら命を絶ってしまうのだが、それはちょっとある意味『吾妻鏡』以上に北条に都合がよすぎないかと正直思った。

 史実と本作品で一致しているのはまず武勇だ。武田信義(八嶋智人)の嫡子である一条忠頼(前原滉)の成敗は諸説あるが、曽我十郎祐成(田邊和也)を討ち取ったことは事実であり、その屈強さはプロ野球選手でもある高岸宏行が演じていることで証明されている。ただ作中の忠常は、武勇以外ではパブリックイメージとはかなりかけ離れているところがあった。普段は限りなく優しい笑顔の青年であり、北条の刺客の翳など微塵も感じさせないのである。しかも 史実以上に北条に使い倒されていて、北条に危害を加える者たちには阿修羅のごとく立ちはだかり撃退する。まるで北条の巨神兵のように実質的には政子(小池栄子)の私兵になっているのだ。それを史実通りに北条は忠常を虫けらのように殺せるのだろうか?それはかなり無理があるだろう。そうなると北条は『草燃える』以上のヒールになってしまうので、それを避けるためにあのような最期を遂げさせたのだ。
史実を知りガイドブックも読んで、それでも忠常が酷い殺され方を見たくない、あれで良かったのだという意見は多い。筆者は史実史上主義者ではないし、あの結果を必ずしも否定したいわけではないが、やはりもう少し納得感が欲しかった。

命を断つ寸前の仁田忠常

 『草燃える』では、高岸宏行とは正反対のいかにも刺客でござんすと言いそうな芸達者でもある中田譲治が忠常を演じていたが、きっと『吾妻鏡』と同じような最期になるんだろうなという兆候を幾度も丁寧に見せていた。

 最初の伏線は、頼朝(石坂浩二)の命で小四郎(松平健)が伊東祐親(浅野和之)の次男祐清(橋爪功)を処刑するときに、忠常が「俺が代わりにやってやろうか?」と申し出る場面だ。このときの忠常の風情は、どちらかというと『鎌倉殿の13人』で八田知家を演じる市原隼人に近かった。結局は小四郎が執行したが直接自分の手を汚したのは最初で最後であり、隣にいたのが忠常だったということ、そしてこのときに頼家が誕生したことも象徴的だった。
 小四郎は父時政(金田龍之介)と同じく人を殺すことを命令する側になり、しいてはさんざんこき使ったヒットマンを処分する側になっていくのだ。

 次の伏線は時政の還暦祝いのとき、九条兼実(高橋昌也)が失脚し土御門通親(仲谷昇)が一人勝ち状態のことを、忠常が二人のことをこう嘆いた。
「いい男が悪い男になったり悪い男がいい男になったりさっぱりわからない」と。
「鎌倉の侍も政治向きの人間とそうでない奴とだんだん開きが出てきた。」と
言ったのは平六(藤岡弘、)だ。そして政治向きではない忠常はどんどん北条のヒットマンになって行き、見事に小四郎と交錯していく。計画犯と実行犯という2つの道に分け隔たれていくのだ。

 そして『草燃える』での忠常は自然に『吾妻鏡』と同化していく。
時政の命で比企能員(佐藤慶)を誅殺した忠常は頼家(郷ひろみ)に呼び出され北条追討の命を受けていたのだ。実行犯は自分だということは、とっくに頼家にバレていて、北条を討つか打ち首になるかどちらか選べと迫られ、首を縦にふるしかなかった。比企を殺したのは頼家が生き返るとは思っていなかったので。
一緒に北条追討の命を受けた和田義盛(伊吹吾郎)はすぐさま北条に伝えるが、実行犯である忠常は誰にも相談出することが出来ず迷っているうちに北条に呼び出され、殺されてしまう。
 鎌倉に舞い戻った伊東十郎佑之(滝田栄)は忠常を助けようと小四郎に直談判するが、
 「もう遅いな。おやじは何もかも承知だ。一旦御所から北条を討てと命を受けた以上、もはや仁田は我が家の敵。今頃はきっと...これが俺たちの裏切りに対する掟だ。」
と冷たく突き放す。ちなみに厳密に言うと『吾妻鏡』では忠常が能員追討の賞を受けるべく時政邸へ向かうが、帰宅の遅れを怪しんだ忠常の弟たちの軽挙を理由に謀叛の疑いをかけられ、時政邸を出て、御所へ戻る途中で加藤景廉に殺害され、弟たちも殺されている。

 『草燃える』でも死ぬ間際に小四郎にわめいた捨て台詞にはこんなものもある。
 「こんなことかよ!わぬしのいっていた武士の社会を強力にするっていうのは、こんなことだったのかよ!」
 実は作中でこの捨て台詞を残したのは忠常ではない。作中で似たような台詞を吐くのは忠常を助けようとした十郎で、
 脚本家の中島丈博が記した『草燃える』のガイドブックで忠常の台詞として残っている。

 繰り返すが『鎌倉殿の13人』の忠常が命を絶った場面を否定する向きはないが、弟たちの死への言及がないことには抵抗がある。
 忠常の死の経緯は『草燃える』の方にリアリティがあり、むしろ
『鎌倉殿の13人』の忠常の自害の方が、あたかも『吾妻鏡』のように見えてくるのだ。

最後の抱擁

次は比奈である。

 『鎌倉殿の13人』の小四郎(小栗旬)の後妻は『吾妻鏡』や『草燃える』のように小四郎が起請文を書くほどの一目惚れではなく、逆に押しかけ女房になるくらいに小四郎に惚れた奇特な妻なのである。本作品では小四郎が何度もアタックしていたのは比奈にではなく先妻の八重(新垣結衣)だったということになっているからややこしい。だから『草燃える』の比奈にあたる野萩(坂口良子)という名である小四郎の後妻は、比奈のように申し出てスパイになったわけではなく、夫に言われて渋々実家に立ち寄って探っていただけである。なので、それほど都合の良い女性に描かれてないところはいいのだが、元々野萩の名前は永井路子の原作に登場する頼朝の愛人で、政子に怯えて鎌倉を去るという設定なのである。つまり”政子に怯えて”という設定だけ借りてドラマでは小四郎の後妻になっているのだ。だから脚本家の中島丈博からすれば、小四郎の先妻かつ泰時の母という題材への想いは海よりも深いが、原作者が作った架空人物がたまたま格上げしただけなので、思い入れは全くなく、離別されたことすら省略されそのままフェードアウトにされている。しかも小四郎の3番目の妻と後鳥羽の側室をモデルとし、しかも先妻に瓜二つの女性(松坂慶子)が終盤に登場するためか、どうしても退場してもらわないと困ったのだと思われる。そんなこんなで当時視聴者だった三谷は、『草燃える』での後妻の扱いに大変不満があったのだろう。で、扱いが悪かった後妻を自作ではどうにか盛り立てようとしてこのようになったのだと推察する。
 確かに比奈は一見小四郎に都合のいい女性のように思われる。本作品では後妻に対し、終始受け身のままであり、先妻を忘れられない小四郎に対して比奈は押掛女房のように正室におさまり、嫁ぎ先のために実家を滅ぼす手助けまでやり、不要になったら自ら離縁を申し立てる、都合のいいこと極まりない。実衣(宮澤エマ)が急に「あの人は比企の血が流れています」というのは唐突で、人を退場させるために使われているようにも思う。ただ夫も子も比企一族に殺された実衣からすれば比奈がどれだけ実家を滅ぼすために手助けをしてくれたとしても、比企の血が流れている彼女が自分の目線にいることが耐えられないのは分からなくもない。比企の血が流れている人を滅ぼすほどの気はないものの、一刻も早く自分の目の前から消え去ってもらった方が有り難いのだ。本作品では普段は現代人と変わらぬ部分を好んで描いているようだが、やはり中世の人間は現代人と違って地縁血縁を重要視しなければならない現実も描かれているところは買いたい。
 それでも『吾妻鏡』自体が、小四郎の後妻を「権威無双の女房なり」とまで絶賛しているように単に外見のことだけを絶賛しているわけではないように思う。だから三谷も比奈のスパイ行為も徹底して有能に描いているし、「せっかくだからって言い方もおかしいですけど」などの言葉選びにも利発でセンスがいいように描きたいという気持ちも見て取れるのだ。北陸道育ちで狩りに強いという設定もあながち創作でもなさそうである。
 「4年後、京で生涯を終えたという」とナレ死で上手くまとめた感もある。再婚の件はあえて省略したようだが、そこを描くのはセンスが悪いとでも言うのだろうか?それに退場の際に「姫の前という名で歴史に刻まれている」と、姫の前”の名をはじめて語られたが、まるで付け足しのようにも思えた。

ブランコを壊す善児

 最後は一幡である。前話では一幡がどうなったかが曖昧になっていた。公式サイトでもせつにも道にも故人シールは貼られていたが、一幡には貼られていなかったので本話でそれが証明された。『吾妻鏡』では建仁3年(1203年)9月2日比企一族と共に一幡は炎の中で生を終えたが、『愚管抄』では母に抱かれ脱出できたものの、11月3日、義時に差し向けられた手の者に殺されたという。結局は『愚管抄』を採用したということなのだろう。
 泰時が父の命に反して一幡を善児(梶原善)にとある場所に匿わせ、善児は弟子のトウ(山本千尋)と共に一幡の世話をしていたのだ。頼家が回復したことで泰時は一幡を生かしていたことを告白するが、小四郎は一幡を生かすことを許さない。泰時は父に反発し場所は隠すが、小四郎は即座に特定し、善児の小屋に向かう。善児は小四郎が現れたことで、束の間の幸せが尽きることを悟った。だが、小四郎に

 「あれは生きてはいけない命だ」と改めて命ずるが善児は
 
 「できねえ」と首を横に振る。
 「千鶴丸(太田恵晴)と何が違う」と小四郎は問うが
 「わしを、好いてくれている」とはじめて人間らしい心が宿ったことがわかる。
 これまで死んだ目をしていた善児に光が灯り、生きた目になるのだ。
 ここで多くの人は善児の死亡フラグを見る。
 これまで人間性を見せなかった登場人物に少しでもそれが垣間見ると、死ななければならないのが、この作品の不文律だからだ。善児が使い物にならなくなったということで、

「お前にはもう用意はない。ならば兄の仇!」と弟子の
 トウに善児を殺させるのではないかと思うのが普通だ。何と言っても善児はトウの仇でもあるのだ。

 本話ではそこまでの顛末はなく、小四郎自身が自分が始末をつけようと刀を抜くと、善児は束の間の幸せの終わりを諦観し、再び刀を抜く。だがトウはそれを察し
 「一幡様、トウと水遊びをいたしましょう。」
 と連れ出す。1話で善児も主の伊東祐親の命で、そう言って千鶴丸を連れ出したことを視聴者の記憶を呼び起こさせることで、一幡の命が尽きたことも視聴者に思わせるのだ。その場に残った善児は、作ったブランコを泣きながら壊してしまう。

 この時点で小四郎は目の光を失い、善児の目には、はじめて光が宿る。まるで折り返し地点のような善悪の入れ替わりに筆者を含めて少なくない視聴者は『草燃える』のあの2人を思い浮かべる。そしてその小四郎と十郎にモデルがあることもある程度知れ渡っている。

 奈良時代の東大寺建立を背景に二人の仏師の生き様を描く物語、手塚治虫の代表作の一つである『火の鳥鳳凰編』のことだ。
 主人公の一人、我王は誕生直後に片目と片腕を失っており、心に影を持ちながら殺戮と強奪を繰り返しながら生活していた。もう一人の主人公、茜丸は盗賊となった我王に偶然強盗に遭い利き腕を傷つけられ仏師として嘱望されていた将来も危ぶまれてしまう。

 その後我王は誤解から最愛の女性を殺したことの後悔や即身仏となった仏師との出会いを得て悟りを開き憎しみや怒りを殺戮や略奪で晴らしていた行為を仏を彫るという”表現”という行為に変え民衆の怒りと悲しみを癒すことに目覚め仏師としての才能を開花していく。一方茜丸は利き手を左手に変えることで復帰し自らの努力で未来を切り開いていき一時期は我王に感謝すらしていたにもかかわらず次第に権力者の後ろ盾が与える名誉に慢心していく。

 そして十五年後、仏師として修行を積んだ二人に、宿命の対決が来た。都の帝から東大寺の鬼瓦の競作を命ぜられたのだ。
誰の目にも我王の勝利は明らかだったが、茜丸は我王への憎悪が湧き15年前に右腕を切られたことを告発した。その結果、我王はもう一方の手を切り落とされる。

 以上が本作の小四郎と十郎のモデルになった火の鳥鳳凰編の概要
であるが、あそこまでの善悪の立ち位置の入れ替わりは、鳳凰編以外の他作品では思い浮かばなかった。

 言うまでもなく我王が十郎、茜丸が小四郎ということになるが
この”茜丸”という名前がその根拠ではないかと考える。小四郎の先妻、つまり泰時の母には資料がなく『草燃える』でも全てオリジナルということになっているが名前は”茜”という設定だ。つまり茜は”茜丸”から取ったとしか言いようがないのだ。

 何しろ茜丸の告発が我王のもう一方の腕を切り落とさせたシーンは小四郎の命令で十郎の両目をつぶさせたシーンとリンクされているのだと。茜丸の我王への恨みに利があるが腕を切り落とさせたのは我王の才能への嫉妬に他ならない。

 『鎌倉殿の13人』の32話は、人の心を取り戻した善児と失った義時の対比の回とも言われるが、安易ながら少なくない視聴者は小四郎が兄の仇であり、自分が失ったものを獲得した善児に同じようなことをするのではないかという淡い期待を抱いているようなのだ。
 ただ前述したように、『草燃える』の小四郎と十郎は対等で、むしろ権力闘争に勝ち抜く人間が、底辺まで堕ちて行き負け犬とされている人間に嫉妬を抱くくらい2人の関係は複雑なのに、『鎌倉殿の13人』の小四郎と善児は対等ではなく善児への関心が薄い小四郎にそのような行為をはたらくことも考えにくい。その点は歯がゆいのだが。
 
 伊東十郎佑之という架空のキャラクターは中島丈博が産み出したもので、中島自身、我王と十郎を自分と重ね合わせているように思うが、三谷はどうも茜丸と小四郎を自分に重ね合わせているのではないかと根拠はないがそのように感じてしまう。
 2匹のキリギリスの物語、アリに追放されたキリギリスと、アリのふりをして生きるキリギリスの物語、別に怠け者の物語というのではない。
 疑いようもなく、前者が我王・十郎で、後者は小四郎・茜丸である。

 滝田自身が伊東十郎佑之が自分の演劇史上、最高傑作だと思っているそうだ。尚、滝田は本当に仏像彫刻家になっている。
 ただ「わしを、好いてくれている」の善児の台詞が少し気になった。千鶴丸も善児に懐いていたのではなかったのか?確か頼朝は千鶴丸を「誰にも懐く子だった」と述懐していたはずだ。

落ちぶれた比企尼か幻想か?

 最後は比企局(草笛光子)である。公式サイトでの故人シールはない。前述したように、本作のガイドブック後編は32話まで記されていないのだが、その32話のラストに、頼家の遺児善哉(長尾翼)の眼前に滅んだはずの比企尼が忽然と現れるのだ。

「あなたこそが次の鎌倉殿になるべきお方、北条を許してはなりませぬ。」
頼家や一幡だけでなく本当の「災いの種」は、生き残った比企尼なのか、それとも善哉が見た比企一族の怨念が比企尼の姿を借りた幻想なのか?比企尼が生没年未詳だからこその自由な創作だ。

 刊行時にガイドブックを見てしまったこともあり、『草燃える』の丹後局から『鎌倉殿の13人』の比企局になった草笛光子は、大悪女から慈母になったと思いきや、どうも本作品では慈母も闇落ちするらしいと思っていたが、こういうことだったのだと納得した。尚、草笛光子は67年前に上映された映画『修禅寺物語』で若狭局を演じている。入手することが可能であればいつか観てみたいものだ。

補足

 時政(坂東彌十郎)とりく(宮沢りえ)の娘婿、平賀朝雅(山中崇)の初登場、突っ込みやすい場面だった。「義母上には野菊がよく似合います」と詰んだ野菊の花束を渡され簡単に転がされるりくには衝撃を受け、思わず「野菊でいいのか、りく」と口に出そうだった。きっと民子も左千夫もビックリだ。
 冷静になって考えるとこの場面も2人の退場のフラグであり、『草燃える』のオマージュでもある。牧の方(大谷直子)と畠山重忠(森次晃嗣)の嫡子が花のことで争ったエピソードがある。重忠だけでなく時政とりくが見れるのはあとわずかだがこのエピソードを繰り返すのかは不明だ。

 『玉葉』の作者九条兼実(田中直樹)の弟で、『愚管抄』の作者慈円(山寺宏一)、満を持しての登場だ。鎌倉を去った中原親能(川島潤哉)は退場することなくそのまま後鳥羽(尾上松也)に仕えていたのは意外だった。そういえば親能は広元(栗原英雄)の兄でもある。
 また源平時代においては決して避けることができないタブー、壇ノ浦に沈んだ宝剣無しの即位にコンプレックスを抱き続ける後鳥羽を早速取り上げてくれたことは嬉しく思う。
あと4年が迫る兼実のナレ死はあるのか?

 「ばか」を「場数を踏んでいる」に切り替えた平六(山本耕史)はやっぱり頭の回転が早い。切り替えの早さは生き残りのスキルの一つだ。

 阿波局がなぜ出家しないのか?ずっと疑問に思っていたが、取り上げてくれたことに感謝する。「私が出家なんかするわけないでしょ!仏様は結局全成殿を助けてくれなかった。すがる理由がどこにあるというんです。」と。

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