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助命は宿命に勝てないのか

 「人殺し!」の声で突然画面を占拠し、一人の男を的に石をぶつける2人の少年に目を奪われた。男は工藤祐経(坪倉由幸)で、所領を取り戻せたことで羽振りも良くなったのか身なりも良くなり、御所のお役目を斡旋してほしいと小四郎(小栗旬)の館に訪れた矢先のことだった。
 ”曽我兄弟じゃないか!”思わず反射的にオープニングのクレジットをチェックしたくなるが、何度見てもキャストロールの役名がついていないのはなぜだろうか?
 それにしても「助命と宿命」という義高のパートに本話の重いテーマに冒頭にぶつけてくるとは、”曽我兄弟の仇討ち”に力を入れる本気度を感じた。

  所詮助命は宿命には勝てないと言われたようなものだ。
「お前に任せた。3日やる。義高を討て」と小四郎は鎌倉殿(大泉洋)に命じられる。小四郎殿を試しておられると見ました」と大江広元(栗原英雄)が言うのはその通りなのだが、既に頼朝は小四郎にかなり目を掛けているので、治める側、即ち人を殺すことを命令する側の1人になってもらわなければ困るのだ。
「人の世を治めるには鬼にならねばならぬ。やつにはそれを分かってもらう。」と。
これまで『鎌倉殿の13人』は『草燃える』に対してどちらかというと対向意識を示していた印象があったが、この台詞には始めて旧作へのリスペクトを感じた。

 『草燃える』での小四郎(松平健)は義高(長谷川裕二)との接点が全くなく、逃亡の手助けに関しても全て政子(岩下志麻)が取り仕切る。よって義高とは関係のない事例であるが、頼朝(石坂浩二)が小四郎に目をかけることは『鎌倉殿の13人』と同様である。頼朝が小四郎を推す台詞は以下の通りである。

「あいつの柔らかな魂が、己を殺して刃物のように鍛えられてゆくのをわしは見たいのだ」
これは小四郎へのラブレターでもあるし、鎌倉幕府栄光への礎でもあり、皮肉にも源氏滅亡への第一歩でもあった。

そのときの無理難題は3つ、
1つは亀の前を迎えに行く役目、
2つは三浦への伊東の恩赦の伝達、
3つは祐清の斬首の役目(必ず自らの手で)

1つ2つはともかくとして、最大級難題コースの3つは『鎌倉殿の13人』にはないものだが、そこは後述する。

 頼朝を説き伏せることが出来なかった『鎌倉殿の13人』の政子(小池栄子)は義高の助命を諦めず、伊豆山権現に匿ってもらうことを考える。でも『草燃える』では最初から
頼朝が「義高には死んでもらうことになったよ」と宣言するため助命嘆願が叶いそうもないと踏んだ政子は密かに逃亡を決意する。義高の従者海野幸氏(長谷川聡)が用意した馬に乗りひたすら信濃を目指す。第1話のオープニングとエンディングの頼朝の女装も本話の伏線だということはみんなにバレバレであるが、同じ女装のビジュアル差もやはり突っ込まれていた。ただ頼朝の女装はともかく、素朴な美しさを持つ長谷川裕二の女装は、洗練された美しさを持つ市川染五郎の女装に決して引けを取らなかった。
このように詳細の相違はあるものの義高の女装と、幸氏の身代わりは同様だった。
 二作品の義高の違いを言うと、『草燃える』の方は何というか本当に申し分がないのだ。川で溺れている大姫を飛び込んで助け、水も吐かせたり、政子に義経と対面させたときに大姫にもいであげた柿を自分の袖で拭いて渡したり、幸氏が自分の身代わりになることに最後まで応じないそぶりだったりで、ちょっといい子過ぎて、しかもどこか諦念すら感じるのだ。
 頼朝自身も「木曽の山家育ちにしては、できすぎている。気立てもよいし、あのまま育ったら姫のいい婿かもしれぬ」と言いながら人質以外の何者でもない立場を決して変えたりはしない。それに比べると『鎌倉殿の13人』で市川染五郎演じる義高は好青年(12歳だが)ではあるが、無欲というわけでもない。
 「九郎殿が不憫でなりません。父に戰でかなうわけがありません。もはや再び会うこ 
  とはないでしょう」
 「私は鎌倉殿を決して許しはしない」
 「機会さえあれば軍勢を率い鎌倉を襲いあの方の首を取るつもりでいます」
 「私を生かしておいても皆さんのためにはなりません」

 以上のように『草燃える』の義高が思っていても決して口にすることはない台詞を、『鎌倉殿の13人』の義高は、むしろ小気味よく連発する。それでも巴から父義仲の手紙を受け取り、「父の思い、しかと受け止めた。」と生き延びることを受け入れたが、結局小四郎を信じきれず、やはり信濃を目指した矢先に、追手が待ち構えていた。広常誅殺事件のときに御家人たちの暴動を制するくらい強いはずで、追手の藤内光澄(長尾卓磨)に勝てたかもしれないのに鞘に結んだ大姫の鞠の糸が絡まり刀が抜けなかったという演出の残酷さよ。(朝日新聞の「ありふれた生活」でこの鞠の演出は自分のホンではなく監督の吉田のアイデアだということを明かしている)
 大姫の命懸けにとうとう頼朝は今回ばかりは折れ、証文も書く。だがまたもすれ違いに義高の首桶を掲げた藤内が喜び勇んで飛び込んで来る。
「これは天命ぞ」と翻す頼朝。皮肉にも宿命が助命を超えてしまうのだ。

 「断じて許しません」と絶叫する政子。
 自分を生かした平家の二の舞はしたくない頼朝の意思が変わることはない。それでも政子と大姫の意思は重く受け止めるつもりはあるので、新たに時政を通して小四郎に一条忠頼の成敗と藤内光澄の処刑を命じる。
 かつて小四郎は、第5話「兄との約束」のアバンタイトルで堤信遠(吉見一豊)に手をかけた(討ち取ったのは時政と三郎)が、そのときの取り乱し方に比べると、一条忠頼(前原滉)と藤内光澄を処分したときの冷徹さは既に別人となっている。
 それに「人を殺すことを命令する側」になりつつあるので、もう実行犯ではなく一条忠頼を誅殺するのは工藤祐経を使うつもりであり、祐経が当てにならないことも分かっているので、保険として仁田忠常(高岸宏之)を常備している。藤内光澄の処刑も自分の部下を使っている。
 以前に第11話「許されざる嘘」について『草燃える』との比較について投稿したように『草燃える』の小四郎(松平健)は、伊東祐親(久米明)が恩赦を辞退し自ら命を絶ったために次男祐清(橋爪功)も恩赦を固辞し自身も斬首を訴えてきた結果、その斬首の役割を負わされてしまう。人にやらせるのではなく自らの手でだ。結局祐清の斬首が、この作品の小四郎の最初で最後の直接の殺人になるのだが、『鎌倉殿の13人』における小四郎の最初で最後の殺人は堤信遠に手を掛けたことだ(厳密に言うとトドメは父と兄なので自らの手でとは言い難い)。
 また『鎌倉殿の13人』で忠頼を成敗した仁田の馴れ方に実は意外性はないのだ。確かに屈強で強そうではあるものの刺客らしからぬ風情なので意外に思われがちだが
伊豆山権現に避難していた政子たちを護衛し、僧兵たちを怪力で撃退していたときの仁田の形相を思い出せば意外性は吹き飛ぶ。
 『草燃える』でもう一つ思い出すのは、祐清を斬首した小四郎の隣に仁田が居たことだ。しかもつらい小四郎を見かねて「俺が代わってやろうか」と申し出るのだ。殺すのに馴れている演出でもあり、後の北条の刺客になる伏線でもあった。
 演じていたのは刺客然とした中田譲治だ。二作品とも特撮経験者は限りなくいるが、中田も多芸で特撮が専門というわけではないが、経験者ではある。ちなみにスーパー戦隊シリーズの第10作『超新星フラッシュマン』のサー・カウラーもいかにものヒットマンで、ウイキペディアを見たら、モデルは『徳川風雲録 御三家の野望』で山内伊賀介を演じた原田芳雄だったことがわかり、思わず頷いてしまった。
「鎌倉の侍も政治向きの人間とそうでない奴とだんだん開きが出て来た。」言ったのは
『草燃える』の平六(藤岡弘、)だ。いずれにしろ両作品とも小四郎と仁田は計画犯と実行犯という2つの道に分け隔てていくのだ。

 忠頼を誅殺し光澄を処刑した小四郎は、さらに光澄の首を固瀬川に晒したことを政子に告げる。
「殺せなどと言った覚えはありません」と政子は動揺するが、
「姉上は決して許さぬと申された。鎌倉殿はそれを重く受け止められた。姉上、あなたの許さぬということはそういうことなのです。」小四郎は今は御台所となった姉の言葉が命を左右することすらあると知らしめる。
 「我らはもうかつての我らではないのです」と。
 このように『鎌倉殿の13人』の政子は、小四郎によって自分の言葉がいかに重くなってしまったことを否応なく比較的早い段階で知ることになるのだが、『草燃える』で政子が知るのは、義高が死んでかなりたってからのことになる。それは、『吾妻鏡』にもあるように懺悔や罪滅ぼしのために多くの灯明を灯して供養する万灯会という行事で、偶然、義高を討ち自身も誅殺された堀藤次の家臣(ここでは藤内光澄でなく名もない家臣)の母と遭遇することで、はじめて自分の言葉の重さを思い知り動揺する。

「鎌倉は恐ろしい所です」(義高)
「お前たちはおかしい。狂っておる。」(武田信義)
「怖い所だ。この鎌倉は。私が生きていく所ではない。」(工藤祐経)
 
 小四郎を信じることが出来ず、故郷をめざす義高の最後の台詞。
頼朝を出し抜こうとしていた信義は誅殺されず、義高の身代わりを発見しただけの息子忠頼が成敗され、「二度と鎌倉殿と競い合おうなどとお思いになりませぬよう」と小四郎に釘を刺された後の開口一番の信義の捨て台詞。親の生き死にはともかく子は殺さないと枕を高くして眠れないというのが頼朝の教訓、その教訓を物語っているのは本話の冒頭で、その2人の少年たちの的になる祐経は、忠頼の誅殺に加わるが、躊躇し刺客になれなかった祐経の別れの台詞。

この3人はよそ者で、よそ者であるからこそ肌で感じるのか、『草燃える』でも実朝(篠田三郎)に嫁いだ坊門の姫(後鳥羽の従姉妹/多岐川裕美)が鶴岡八幡宮で起こった惨劇へのショックに同じ台詞を口走る。
 「鎌倉の澱んだ風とは大違いだな」と嘯く義経と同様に当時の鎌倉に生息していると、感情を殺すことを苦しいままでいると生き残ることも出来ないので、次第になんとも思わなくなるのが新旧の作品の主題なのだろうか?
 「私が生きていく所ではない」と鎌倉を去る祐経は、都に戻るのだろうか?祐経には都に仕えた経験と能力があるはずなので。
 本当は冒頭で「人殺し」と石をぶつけてきた少年から逃げるように去るのか、それとも都からも逃げても天命には逆らえずに鎌倉に引き寄せられるように戻ってくるのか。 

補足
 他の『草燃える』との相違点

 『草燃える』での大姫役は斎藤こず恵(『鳩子の海』の子供時代の鳩子役の人)、幼い恋物語に全4話の尺も割っていたこと自体が、今からすれば驚異的だが、義高の逃亡作戦に関与する力はなく人質という認識すらなかった。むしろ少女にとってはこの事件があまりにも哀しいトラウマだったため、短い人生の間に急激に大人になり、ここで少女時代が終わったのだ。『鎌倉殿の13人』の大姫役は落井実結子、父の面前で喉元に刃を突きつけてまで義高を救おうとする大姫には既に少女時代はない。この差はおそらく三谷幸喜が、吾妻鏡では義高の逃亡作戦に関与しているのは政子ではなく大姫だということを考慮してでの表現であろう。義高誅殺の決定を知った女房が姫に知らせ、姫が義高に知らせたということになっているが、吾妻鏡は北条側の歴史書なので実話かどうかは分からない。なんといっても大姫は当時満年齢6歳だ。政子にはない源氏の血が入っている大姫が間に入ったということにした方が都合がいいのかもしれないのだ。

 「目にする捨て子や孤児を助けてやりたい。その子たちを助けてやりたいのです。この地でこれからもむごい命のやり取りがあるのなら私はせめて子供たちを救いたいと思うのです。」
 これは八重(新垣結衣)の退場の伏線か?富士の巻き狩りの前に姫の前と再婚する以上、死別か離別?
 八重がやりたいことは、あの十郎(滝田栄)が変わったときにやっていたことに近いように思う。『草燃える』の中盤から憎悪だけで生きてきた十郎が悟りを開き、僧侶となり、聖となって戦傷者を介護するようになっていく。そして『鎌倉殿の13人』の八重は戦災孤児の世話をしている。十郎のポジションは善児(梶原善)、茜(松坂慶子)ポジションは八重と思われがちだが、ひょっとして八重こそが十郎のポジションで、アニメ『平家物語』の主人公びわのように琵琶法師となって登場するのだろうか?




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