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2週間かけた頼朝の死

「僕だったらこういう風にするな」
 昨年から何度も目にしたこのコメントは、43年前の高校生三谷幸喜が『草燃える』で鑑賞した頼朝(石坂浩二)の落馬から死に至るシーンのことである。
 このコメントを目にした多くの読者は頼朝(大泉洋)暗殺に大変期待していたわけだが、それがものの見事に覆されたというかトーンダウンというか梯子を外されたという格好になった。

 「暗殺説もあるんですが、そうなるとそこに殺す側のドラマが生まれてしまう、そうではなくてあくまで頼朝側のドラマとして完結させてあげたいという思いもありました。それで最後は静かに死なせてあげることにしました。」と。
 案の定、最初からその気はなかったのに、ここ数年間頼朝が死ぬまであたかも暗殺があるかのように思わせぶりの言動で仄めかすことで視聴者を引っ張ったのだろう。

 確かにこの2週間にわたる頼朝の死はその通りになった。そのくせ、視聴者サービスの一環なのか、暗殺説を全くゼロにはしていない。不恰好な餅を出して頼朝を詰まらせてしまう時政(坂東彌十郎)や、失神し落馬する直前に水を所望した頼朝に水筒を渡す小四郎(小栗旬)が毒殺したかのように見せかけてミスリードを誘っているように。ただ後継者の頼家(金子大地)の乳母夫である比企(佐藤二朗)はともかくとして北条に頼朝の死によるメリットはないので、基本的にはやはりミスリードかとは思われる。
 だがミスリードはそれだけではない。みんなが盛り上がった”聴こえなかった鈴の音”だ。
 政子、畠山重忠、頼家、和田義盛、三浦義村、大江広元、梶原景時、比企能員、りく、以上が頼朝の最期を告げる鈴の音が聴こえた面々である。その鈴の音が聴こえない小四郎や、聴いてもいない時政に、頼朝が死ぬことがわかっているから(自分たちが殺すから)虫の知らせが鳴らないと言われているが、それを言うなら他にもここで選ばれるべき者がなぜいないのかと問われると答えようがない。
 正解答かどうか自信はないが、鈴の音と頼朝の死は直接的には関係はない。
 生死は問わずこれから小四郎とパワーゲームを繰り広げる人たちなのだろう。但しそれは代表者1名のみであり、北条の代表者はりく(宮沢りえ)で、時政ではないのだ。あとはそれぞれの一族の代表者ということなのだろう。ただそうなると広元(栗原英雄)がいるのはおかしいかなとは思ったが、確か北条がクーデターを起こすときに巻き込まれたくない広元が退席するしないで揉めていたこともあったので、一応鈴の音が聴こえた方に入れたのかもしれない。それに後継者問題での「ひとまず全成(新納慎也)殿に任せ若君が十分成長されたところで鎌倉殿の座をお譲りになるというのはいかがでしょうか」発言も小四郎にとっては困るのだろう。
 あと御台所である政子(小池栄子)は特別枠であるし、小四郎が利用する相手でもあり、裁きをし沙汰をする立場でもあるので入れない方がおかしい。
 前述したように北条にメリットはないので、毒殺はミスリードだったことは間違いないと思うのだが、一度は考えたということはあり得るかもしれない。なぜなら政子すらも、「鎌倉殿はおかしい」と言い出すくらいに、あまりにも疑心暗鬼になった頼朝の状態に問題があったからだ。無理がある入内を推し進めたことで娘の大姫(南沙良)の寿命を縮めたり、その大姫の死をも、自分が幽閉した範頼の呪いだと言い出したりするほどの異常さは、「鎌倉幕府のためにならない」と一瞬、小四郎に思わせたのかもしれない。だが頼朝は落馬する直前になんとか持ち直すのだ。
 
 「人の命は定められたもの。あらがってどうなる。神仏にすがっておびえて過ごすのは時の無駄じゃ。甘んじて受けようではないか。」と比較的まともになったことで、小四郎は頼朝を殺すことはやめたのかもしれない。もしそうだとしてももう遅い。既に小四郎が渡した水筒の水を頼朝は飲み干しているのだ。

 「振り落とされたのではありませぬ」
 「よくぞ見抜いた、太郎」
 頼朝が落馬したときの着衣の乱れかたから、先に失神しそのために落馬したと推理した泰時(坂口健太郎)。この証明は鎌倉殿の武家の棟梁としての名誉だけは護れるが、かえって毒殺の疑いが強まってしまう。毒殺があったとあくまで仮定の話だが、小四郎は、いずれ自分を裁き超えていくだろう息子を誇らしかったのではないかと推測する。

 頼朝が落馬し、危篤状態になったことに対応する小四郎に視聴者は疑念を抱く。景時(中村獅童)と重忠(中川大志)には「口の堅いお二人にお願いがあります。速やかに次の政の形を定めます。それまでに内密にしておきたいのです」と言いながら比企には「比企殿には本当のところをお話します。このことをくれぐれもご内密に」と伝えてしまう。わざと比企に本心を引き出せたり謀叛を起こさせることで、一網打尽にするのかと思ったが、そうでもなく本当に頼家に継承させるつもりではあったようだ。頼家が継承するより全成が継承するのはなお困るので、全員に同じようなことを言ってバランスを取りたかったのだろうか?
 本作品では小四郎は景時と重忠を個人的には敬意を払っていたようだが(重忠は自分の推薦で親族にもなっている)、二人とも広常事件にはある程度は関与があった前科もあるので全てを預けているわけでもないのだろう。そう考えると例の鈴の音に関してもつじつまは合うのだ。
 といっても基本的には”暗殺はありませんでした”というのが王道ということなので、あとはそういうのが好きな人は勝手に解釈してねといわんばかりのサービスなのである。

「船でも造って唐の国に渡りどこぞの入道のように交易に力でも入れるかのう」
この発言も落馬の直前だが、まるで予言のよう、いや過去と交錯もしている。一見ポジティブ発言だが、”入道”のことは清盛を示していることであり、”船でも造って唐の国に渡り”は成長した実朝の願望を意味していることでもある。それは小四郎が望まないことでもあるのだ。ひょっとして水筒の水に細工したことに後悔した小四郎は、再度得心してしまったのかもしれない。

政子と義時 姉弟のせめぎ合い

 小四郎の駆け引きはこのことだけではない。
「悲しむのは先に取っておきましょう」と副題の「悲しむ前に」のように小四郎は姉を焚き付ける一方、自分は鎌倉を去ることを仄めかす。あまりにもの唐突さでわざと自分は去るなどと言うことで、姉に自分を引き止めるように仕向けて優位に立とうとしているなと観る方は思ってしまうだろう。それは小四郎だけではなく、頼家も景時の入れ知恵で、一度は鎌倉殿の座の継承を固辞するが、まんまとそれに成功し母の推挙を手に入れる。
実は藤九郎(野添義弘)も骨の箱壺を運ぶ役目を引き受けるか否かで同じことをするのだが、日頃の行いもあって誰も藤九郎がわざと固辞するとは思わない。

頼朝と政子 by『草燃える』

頼朝と政子の生前での別れと臨終は、比較的『草燃える』と似通っている。

 「あなたが女好きでなかったら私はあなたと結ばれることはありませんでしたから」
 「悔やんではおらぬか」
 「それはわかりません。でも退屈しなかったことは確か」

 これが『鎌倉殿の13人』であれば、『草燃える』はこうだ。

 「わしの妻になって不幸せだと思っているのか」
 「いいえ これが私の運命なのだと」
 「安心したぞ わしはまた浮気者の夫を持って後悔しているのではないかと思っていたが」
 「あら 言っときますけどそれとこれとは別でございますから」
 「これも運命なんだ 諦めた方がいいぞ」
 「いやですわ いやです これからも黙って引っ込んでいませんからね」
 「ああ恐ろしや 恐ろしや」

 双方の会話は笑いで終わる。「退屈しなかった」と笑って返す政子が印象的だった。

頼朝を看取る政子

 しかし最期は微妙に違う。
 『草燃える』での頼朝の意識は一度として戻ることはなかったが、本作品では政子に最期の別れを伝えたかったのか、一瞬だけ意識が戻る。
 「これは何ですか」出会った時と同じように。
だが人を呼ぼうと政子が目を離す一瞬に頼朝は逝ってしまう。
 そして『草燃える』では意識が戻らない頼朝に政子(岩下志麻)が口移しで水を与え、頼朝は僅かに反応し水を吸収する。周りが回復の兆しを喜ぶ中、政子はその前兆が臨終のサインだということを感覚的に悟ってしまうのだ。
 だが本作品ではいかにもケレン味のある口移しはなくその代わりに、頼朝からの最後の邂逅と、見開いた頼朝の目を閉じるという政子の行為があるのだが、それによって看取ったという意思がより鮮明に伝わってくるのだ。

  両作品の印象的な違いはもう一つある。
  実朝の乳母になる政子の妹と、頼朝の異母弟の全成だ。

 「あなたに御台所が務まるものですか!あなたには無理です」
 「結局姉上は私が御台所になるのがお嫌だったんでしょう 私が自分に取って代わるのが許せなかったの」

 父と義母に唆され、夫が鎌倉殿になる、そして降って湧いたような御台所の地位にのぼせあがってしまう実衣(宮澤エマ)とそれに動転する政子の会話だ。

『草燃える』での政子の妹夫婦(頼朝からすると弟夫婦)は全く違う。野心は有り余る程あるが、将軍や御台所の名などどうでもよく千幡(実朝)を鎌倉殿に就けて、その乳母夫である自分たちが実権を握ろうと暗躍までするのだ。文字通り「名を捨てて実をとる」の体現である。なので別に父や義母に唆されてもいないし(史実では実際そうだったのかもしれないけど)当時乳母のスキルは特化され養育は必須なこともあって、妹(真野響子)は乳母という職業に誇りを持っていたし、阿波局という肩書きにも満足していた。夫(伊藤孝雄)のことは好いていたものの自分を都合よく使うために所領のない夫と結婚させた姉を恨んではいたが、それをぶちまけるのはもっとあとの話だった。
 本作品は妹を少し軽んじてはいないか?口が軽いのはその通りだとは思うが(『吾妻鏡』にも『草燃える』にも記されていたように)有能さもある。夫の方も軽んじられていると思う。インチキ霊媒師にしたのはいいアイデアだとは思うが、軽んじていないのであれば、たとえインチキであってももう少しマシな霊媒師に描いたらどうなのか?妹夫婦をコメディリリーフにすることでドラマの殺伐さを和らげたかったのだとは思うが、夫も最初からそれなりの野心や覚悟を持っていたし、兄が死ぬまではもっと用心深かった。幼き日、思い出したくないであろう母常盤とさらに幼い弟たち(義円と義経)との雪の逃避行がインチキ霊媒師のベースになっていたのか?といっても記述は『平治物語』や『義経記』からなので、全成が退場するときには取り上げられることはおそらくないだろう。
 阿波局も全成も『草燃える』の原作の一つである連作短編『炎環』の単独主人公になっているぐらい原作者の思い入れがあるからこそドラマでもその敬意を感じ取れた。
 三谷も妹夫婦をこのままコメディリリーフにさせるつもりではなさそうだし、本作品は一応どの登場人物にも敬意を払うつもりで描いているのだろうとは思うので、筆者の思い込みを翻してくれることを期待している。


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