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狩人と獲物(と狩人の身代わり)

 第23話「狩りと獲物」?またややこしい難解な副題を付けてきて、しかも視聴者に解けというのは、酷すぎる。たぶん「狩人と獲物(と獲物の身代わり)」という意味なのだろうと普通に解釈し、そのまま進ませてもらう。
 本話の主題に該当するのは5件ということにしたいので、変則的な部分もこじつけもあるがご容赦願いたい。

      狩人    獲物      身代わり      結果
⒈      万寿    鹿      金剛が仕留めた鹿   ?

⒉      曽我兄弟  頼朝     祐経         失敗

⒊      頼朝    比奈     祐経         失敗

⒋      比奈    小四郎    八重         成功

⒌      小四郎   謀反の否定  敵討ち(美談)    成功

 直接か関節かの違いはあるが、上5件全て富士の巻狩に関連がある。

 ⒈は富士の巻狩自体のテーマを背負うもので次期鎌倉殿である万寿のお披露目が全てと言っていいので、とにかく万寿に獲物をしとめてもらうことが最優先事項なのだ。だが本作品におけるこの時点での万寿の弓術ははかばかしくなさそうなので、御家人たちは万寿にわからないように(頼朝は知らないふりをして)”動かぬ鹿”を一匹用意することで偽装工作をする羽目になる。その”動かぬ鹿”は金剛が初めて仕留めた小鹿なのだが。御家人たちの悪戦苦闘の末、建前上、万寿がお披露目の中、鹿を仕留めることができたということになったが、万寿はとっくに偽装のことを見抜いていた。この劇中での”お披露目”は、はじめて大人が演じる11歳の万寿(金子大地)と10歳の金剛(坂口健太郎)の”お披露目”でもあるのだ。
 特に「成長著しい金剛」という皮肉なテロップがトレンド入りになったこともあってか、”30歳の金剛”はにわかに話題になった。⒈の身代わりになった鹿は、金剛自身と言ってもいいだろう。
 『吾妻鏡』には、建久4年(1193)に万寿が鹿を仕留めたことは記されているので、創作とはいえ根拠なしに狩りを偽装にするのは失礼なんじゃないかなと若干思った。しかしその分頼家が全て悪いように『吾妻鏡』には暗君に描かれていた万寿(頼家)の再評価の意思もあったのでまあよしとしよう。

富士の巻狩での万寿(鶴見辰吾)by『草燃える』

 例えば偽装に感づいたことや、御家人たちを責めなかったことや、そのことで金剛に当たらなかったことや、曽我兄弟事件での采配の的確さなどの聡明さを描いたことだ。
 だが『草燃える』での富士の巻狩における11歳の万寿は、まだ子役を起用していた。当時14歳の鶴見辰吾だ。声変わりも最初の時期だった。万寿の初参加のことも『吾妻鏡』をなぞるように、乳母夫の比企能員(佐藤慶)の導きで矢を放ち鹿に命中させている。「そんなこと、別にどうってことないじゃないの」母政子(岩下志麻)のそっけない対応も『吾妻鏡』の「武将の嫡子なので、鹿を獲たところで大したことはない」とぼぼ同じだ。だが、『吾妻鏡』は一応は歴史書という形を取っていて、小説のように、登場人物の心象風景が描かれるわけではないので、その政子の心情は『草燃える』の創作である。政子のそっけない対応の理由は、機嫌が悪かったからだ。巻狩や流鏑馬のような狩場には遊女や酒宴が付き物で、頼朝(石坂浩二)が狩場が好きなのはそれが目当てだということは分かっているので、万寿が射止めたことを報告してきた御家人に八つ当たりしてしまう(万寿にはそのまま伝わってしまう)。その後頼朝や万寿が殺された誤情報が飛び交った末に、無事に帰還した万寿に泣いて詫びるのだが、万寿は母に心を閉ざし、関係が修復されることはなかった。
 それに較べると『鎌倉殿の13人』での政子(小池栄子)は、『吾妻鏡』と同じ対応だが、個人的に機嫌が悪かったわけでもなく、比企家がいる目の前で、万寿を褒めることが出来なかったので、比企が帰った後に、「万寿が帰ってきたら、うんと褒めてやりましょう!」と満面の笑みを浮かべるのだ。その後も息子との行き違いが生じることも今回はなかった。まとめると、万寿の狩りは成功とも失敗とも言える。標的である鹿を射止めることは出来なかったが、本人には不本意ではあるものの偽装工作は成功し、「私はいつか弓の達人になってみせる」と誓いを立て、実際に後に武芸の達人になったことだ。後で放った矢が思わぬ獲物(佐藤二朗)に当ったことも成功か失敗か判定しにくい。これも本人の預かり知らぬところだ。
 ちなみに『草燃える』の28話「富士の巻狩」、29話「曽我兄弟」に、金剛は登場しない。巻狩での金剛の大活躍は『鎌倉殿~』の創作である。
 
 「頼朝に気に入られた者だけが甘い汁を吸い、そうでない者は虐げられる。だから頼朝を討ったのだ!俺が狙ったのは頼朝だ!」
 
 「俺は謀反を企んだんだ!この鎌倉の体たらくはなんだ!俺たちが世の中を作るなどと言いながら、一部の者だけが甘い汁を吸って…」
 「俺は親の仇を取ったんじゃない!そんなことどうでもいいんだ!俺は謀反を」
 「自分だけで鎌倉を作ったような顔をしてやがる奴を殺してやるつもりで」
 「俺は頼朝を殺そうとしたんだ。敵討ちなんかしない!俺は謀反を起こしたんだ!」

 以上全てが、曽我五郎の叫びで、上記が『鎌倉殿~』で下記が『草燃える』だが、ほとんど違いはないだろう。
 両作品とも事件は曽我兄弟と一部の御家人たちの「敵討ちを装った謀反」であることに変わりはないし、幕府安泰を取り繕うために亡父の敵討ちという単純な美談として処理されたことも同じである。
 相違点を整理すると、『鎌倉殿~』での曽我兄弟(田邊和也、田中俊介)と一部の御家人たちの標的は頼朝(大泉洋)であり、曽我五郎の烏帽子親である時政(坂東彌十郎)を騙して北条の兵を借りることに成功するのだが、『草燃える』では曽我兄弟と御家人たちの標的は違うのだ。曽我兄弟の標的は頼朝で、御家人の標的は北条なのだ。しかも当然のことながら兄弟は標的が頼朝だということは御家人たちには伏せている。それに『鎌倉殿~』では祐経(坪倉由幸)はあくまで影武者だが、『草燃える』では最初から祐経(加藤和夫)のことも行き掛けの駄賃に殺すつもりなのだ。そしてその黒幕は鎌倉憎しの伊東十郎祐之(滝田栄)なのだ。しかも三浦家もその計画に加担はしないし、直接には加わらないが、アジトの場所だけは提供している。『草燃える』の曽我兄弟は、『鎌倉殿~』の曽我兄弟よりさらに搾取されていて、烏帽子親の時政(金田龍之介)は彼らの後ろ盾になるつもりは微塵もない。そして兄弟の考えすら一致していない。兄の十郎(三ツ木清隆)は五郎(原康義)の烏帽子親の時政が御台所の父なので、自分たちの口添えを当てにしているが、血気盛んな弟の五郎は皆にペコペコする兄の姿を見るのが辛いのだ。と、このように『草燃える』の曽我兄弟は、こき使われているだけで、敵討ちの余裕すらなく、黒幕に「伊東の不倶戴天の敵である頼朝がいる以上、伊東であるお前らが御家人になれるわけがない」と、頼朝暗殺決行を唆されるのだが、『鎌倉殿~』の曽我兄弟(特に兄)の方が敵討ちを装った謀反の計画を立てるようなしたたかさは持ち合わせている。

「まれなる美談として末代まで語り継ごうぞ」

「皆の者、この曽我兄弟の敵討ち、鎌倉始まって以来の美談、のちのち孝道の鏡として語り継ごうぞ」

 上記2件は双方とも、富士の巻狩での襲撃に対しての頼朝のコメントだが、上は『鎌倉殿~』の頼朝で、下は『草燃える』の頼朝である。いずれも『吾妻鏡』の記述になぞられている、ということは、狩人である曽我兄弟は、獲物である頼朝を狩ることに失敗しているのだ。敵討ちを装うために祐経を身代わりに立てたのに、本人たちの思わぬところで祐経が本当の身代わりになっていて頼朝を討ち果たすどころか、たとえ自分が処刑されようとも、せめて謀反だと語り継いでもらいたかったのに全て相手の思い通りになってしまっているのだ。

 『鎌倉殿~』での富士の巻狩の襲撃におけるもう1人の狩人は、当然小四郎(小栗旬)だろう。獲物は謀反を否定すること、身代わりは行われた謀反を敵討ちに装うことで粉飾された美談である。

「これは謀反を装った敵討ちでございます」

「このたびのことは、見事、父の敵に報いたる所業、誠、涙なしには語れません。」

 上記は『鎌倉殿~』の富士の巻狩での襲撃に対しての小四郎のコメントで、下記は『草燃える』の時政のコメントである。前述したように両作品とも頼朝が処刑される五郎の面前で美談が語られている以上、富士の巻狩における襲撃でのもう1人の狩人、つまり小四郎が獲物を狩ることには成功してしまっているのだ。違いはというと、上記2件のように『鎌倉殿~』では小四郎が『草燃える』では時政が発信しているのだが、もう1つ相違点があって、時政は処刑される五郎の面前で発しているのだが、小四郎は白洲などではなく頼朝との密談で発していることなので「これは謀反を装った敵討ちでございます」の発言は頼朝と小四郎以外は誰も知らない。

 『草燃える』の時政は、自分が実行犯の烏帽子親の立場もあり、怒りまくっていて、クーデターの黒幕探しに息巻いているが、小四郎(松平健)は父を冷静にさせて様子を見ようという。謀反だということを明るみにしてしまうと反北条の思う壺になってしまうと。

「我が家に対し一部の御家人の不満があるのは確かです。今それをほじくり返し大げさに騒ぎ立てて反北条の気運を煽るようなことになってはいかがなものでしょう。」と。

そして頼朝自身もやっと鎌倉が軌道に乗っているときに謀反の芽など早急に摘み取らなければと同じように考えていたので阿吽の呼吸で対応する。曾我五郎の反鎌倉の狼煙を無視し多数の都合で仇討ちで孝道の鏡、美徳だったということだけ残し斬首する。

曾我五郎の声が空しく響きながら。

 しだいに北条家中でも主導権を握るようになり覚醒していく小四郎に、時政も思わずたじたじになっている。五郎の処刑も小四郎の指示で行われているのだ。それでも「涙なしには語れません」とオーバーリアクションで煙に巻くような時政の芝居は小四郎には出来ないが。両作品とも小四郎の怪物化と曽我兄弟事件実録の二重奏が奏でられている。

 本話の「狩りと獲物」のテーマで最後に残ったのは、頼朝と小四郎と比奈(堀田真由)の関係だ。⒊では狩人が頼朝で獲物は比奈で身代わりは祐経、⒋では狩人が比奈で獲物は小四郎で身代わりは八重ということになる。⒊の場合は、祐経を使って比奈の場所をつきとめる頼朝だが、うるさい藤九郎(野添義弘)を出し抜くために、祐経を自分の身代わりに立て自分はお忍びで比奈に近づこうとするが、小四郎が待ち構えていた。頼朝は小四郎と女子を取り合うことは断念した。なので⒋は失敗なのだが、祐経は結果的に頼朝の個人的な狩りと「曽我兄弟の敵討ち」の狩りとで二重の身代わりになる羽目になり、そのおかげで自分の寝所にいなかった頼朝は命拾いをした。祐経の犠牲で。
 そして⒋の場合だが、諦めた頼朝に続いて、自分も去ろうとすると、比奈に引き留められる。
 「私の方を向いてくれとは言いません。私が小四郎殿を見ていればそれでいいのです。」と。かつて小四郎が
 「振り向かなくても構わない。私はその背中に尽くす」と八重に言っていたことの反復だ。
 比奈が獲物を狩ることにほぼ成功しているのだ。
 『草燃える』では、同じように頼朝と小四郎は女子の取り合いになっていて、プライベートでも小四郎は怪物化し、頼朝に手をつけられる前に比奈に該当する姫の前(坂口良子)を手に入れるために姉の力を借りる。姉に正式に紹介する前に事前に彼女を見てほしいと頼み、その通りになると姫の前は鎌倉殿が自分に手をつけようとしていることが御台所に露見してしまったら自分は鎌倉では生きていけないと、袖にしていた小四郎の誘いに応じてしまうのだ。有名な姉の「後妻打ち」を利用して。

その他 
 「乳母父となって育ててきた甲斐があったというものだわ」と頼朝も万寿も討たれたという誤情報に思わず飛びつき、千幡(実朝)が鎌倉殿になるチャンスがめぐったと野心を覗かせた実衣(宮澤エマ)、「不届なことを考えるのはよしなさい」と宥めている全成(新納慎也)。『草燃える』では千幡の乳母父になった時点で、冷静な全成(伊藤孝雄)も阿波局になった保子(真野響子)も野心を激らせるのだ。保子は明るく、全成は静かに。『鎌倉殿~』の全成も癒し系のままでいいのだろうか?

  範頼(迫田孝也)の鎌倉殿の継承について三善康信(小林隆)が朝廷に書状を送ったことは創作で、広元(栗原英雄)との違いを出したいのも分かるが、どう考えても三善が下手を打ったという印象しかない。そう思っていいのだろうか?

 他作品でも一度として惜しまれたことなどなかった祐経は本作品でも結局惜しまれなかった。
 三谷幸喜も祐経を丁寧に描写していたつもりなんだろうが、なぜ鎌倉を「私の住むところではない」と言わせたのだろうか?惜しまれるように描けとまでは言わないが、せめて敬意ぐらいは払わないのだろうか?
 「私には都がある」とか「私にだって居場所くらいある」というような主旨の捨て台詞くらい吐かせてやってもいいではないかとつくづく思う。

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