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将軍の弟と御台所の妹

 全成(新納慎也)の最期、誰もが本話で退場することは分かってはいたものの、一体どういう展開になるのか皆が固唾を呑んで見守っていただろう。ガイドブックですら、「頼家は全成に死罪を申し付けた」という記述しかないので、果たしてどういう最期を迎えるのか見当も付かなかったのが正直なところだ。とは言いつつ三谷幸喜の「ありふれた生活」で「スペクタルという意味では一番」、「大河ドラマ史に残る、とんでもないシーン」とまで自身で銘打っているので、期待値が高くなるのは致し方ない。

 確かにその通りだった。呪文が走り風が鳴り、豪雨が降り、雷鳴が轟き、稲光が走り、妻の名を呼び、「臨兵闘者皆陣烈在前!」の九字護身法を唱え続ける。
 ここは処刑場、全成の処刑を執行する八田知家(市原隼人)が治める常陸だ。

 思えば実衣(宮澤エマ)との出会いも九字護身法、頼朝の挙兵時に政子(小池栄子)や実衣を捕らえようとする僧兵たちにも九字護身法を唱えたが風は起こせなかった。頼朝(大泉洋)の「これは何ですか?」と同じで、”登場と退場が対となる演出”が三谷の特色だということはよく知られている。
 登場のときから、『鎌倉殿の13人』の全成は、いつもインチキ霊媒師として扱われ、姪の大姫(南沙良)にも見下され、実衣にも「あなた見掛け倒しだから」と諦めかけられていた。

この「とんでもないシーン」は、全成が比企に一矢報いようとしての呪文というわけではない。最後まで自身の占いが半分しか当たらないことを気にしていた全成が、奇跡を起こすことによって、「全成の確率」が半分ではないことを証明するためだったのだろう。
 「見よ 我が妻よ!」と。もちろん妻の厄払いをするためでもあるのだが。
 実際呪文は逆効果(定かではないが)になっていて、頼家(金子大地)が再度重体になったことで比企に一矢報いたわけでもなかったのである。
 「誰も恨んではいけないよ」と実衣に残したように。

ただこの夫婦は癒し系でコメディリリーフで、夫婦愛を強調することで終わらせてしまうのはやはり勿体ないと思うのだ。 

2人の全成(伊藤孝雄と新納慎也)

 将軍の弟と御台所の妹というこの夫婦はやはり侮れない。『草燃える』の原作のひとつである『炎環』は連作の形を採っていて、全成は『悪禅師』、実衣に当たる政子の妹保子は『いもうと』で主役を張っているのだ。

 なお『炎環』における連作は4作で、他2作は、『黒雪賦』では梶原景時が、『覇樹』では北条義時が主演を果たしている。

『鎌倉殿の13人』と『草燃える』、どちらの全成も僧であり、異母兄頼朝の挙兵を聞き、醍醐寺を捨てて鎌倉に駆けつけたところは同じだが、その基本以外は全く違う。
 
『草燃える』の全成(伊藤孝雄)は、陰陽の術に特化した全成ほど呪術に重きをおいてはおらず、自分が鎌倉殿になることは全く考えていない。それより千幡(実朝)が生まれる前に兄頼朝(石坂浩二)にぜひ妻保子(真野響子)を乳母にと申し入れその許諾に成功し、千幡が生まれると妻と共にその養育を一手に引き受けるのだ。頼家(郷ひろみ)にあまり先はないと考えた全成は、は自分たちの手中にある聡明な千幡こそがポスト頼家だと確信し、自分は黒衣の宰相として実権を握ることを夢見るのだ。そのためなら頼家の乳母夫である景時(江原真二郎)を追い落とし頼家と一幡を調伏することも辞さない本作品の癒し系の全成とは正反対の、正真正銘のダークヒーローなのである。
 まあ千幡を擁して”黒衣の宰相”として実権を握るというようなことは原作の『悪禅師』にも確かに書かれていた。
 本当は”悪禅師”という称号も醍醐寺時代の悪名だ。ネタは『平治物語』らしい。
 
『草燃える』にも『悪禅師』にも全成が使った方法は呪術などではなく、結城朝光による例の「忠臣は二君に仕えず」発言を元に妻を通じた高度な追い落としだ。全成は基本的に万能で、調伏もすれば、千幡の養育に知性を生かして選書もする。普段は広元(岸田森)や康信(石濱朗)と席を並べて文官の仕事をすれば、上記のように北条の軍師にもなっている。

 その割に同母弟の義経(国広富之)には意外に優しかった。
誰に対しても同じ涙を流す兄頼朝に何の疑いもなく感涙してしまうその義経に全成は「お前のときとそっくりそのままに兄上は俺のときにも泣かれた」と義経に言うが自分の感想は述べない。そして全成は無許可で任官してしまう義経に怒る頼朝に珍しく感想を述べる。「なぜあいつの無知を憐れんでやらないのですか」と。但し感想を述べない全成は原作と同じだが、感想を述べる全成は原作にない脚本家中島丈博のオリジナルだ。

 すっかり北条の入婿におさまった全成は、北条一族と手を握り、自分の野心は隠しつつ比企一族を滅ぼす計画を進め順調に悪禅師への道を行くのだ。だが、同じ頼家の乳母夫でも比企能員(佐藤慶)は手強い景時より器量が劣っていると見ていた全成は、甘く見てしまったのか、頼家と一幡を寿福寺に篭って調伏していたことが発覚し、捕らえられる。寿福寺での調伏は『悪禅師』の創作である。

 そして全成は配流先の常陸国で誅殺されるが、凡てをさとっているのだ。
 「悪禅師、御生命を頂戴つかまつる」
 全成はかすかに咲う。
 「悪禅師…か」
 青年期に醍醐寺に冠せられたおくり名で終わった。
 最後までニヒルさを崩さない。

 以上が『草燃える』の全成の全容(ダジャレではない)だが、これを上書きするのは正直難しい。

全成の最後(伊藤孝雄)by『草燃える』

 範頼と全成、源平時代では埋もれがちな、頼朝と義経の兄弟だが「こういう日陰の人ほど、描き甲斐がある」と「ありふれた生活」で三谷は明かしている。当初は新納慎也が演じる「アクの強い妖術師”悪禅師全成”を観てみたいと思った」らしいが、自分の中で全成本人が「僕はそんな人間ではないんだよな」とつぶやいた、ということだ。筆者は「アクの強い妖術師”悪禅師全成”」を観たかったし、範頼(迫田孝也)のように再評価されるような描き方もして欲しかったとも思うが、ここでは記していない三井の本音を分からな
くもない。
 『悪禅師』は表題の連作の中では一番面白い。全成の幼名は今若、常盤三兄弟の長男である。しかも常盤似という設定だ。つまり美貌だということである。
 『炎環』の4人の主人公、全成、景時、保子、小四郎は順当に作者の永井路子に寵愛されているが、自分が創作した全成がタイプなのだろう。三谷は『悪禅師』という作品をリスペクトしながら、永井に寵愛された『草燃える』の完璧すぎるダークヒーロー、全成のように描くのは多分恥ずかしいのだろう。他の人物の描き方を観察すると、ちょっとでも格好いい面を出しそうなときも、わざとはずしたりすることはよくあるのだ。但し処刑の場で最期まで妻を想い妻の名を呼ぶ全成にとどめをさす八田知家(市原隼人)が発する「悪禅師全成、覚悟!」の台詞だけはオマージュ全開だった。クレジットでは善児(梶原善)だけでトゥ(山本千尋)がいないのは、史実通り処刑を執行するのは八田知家だということはわかってしまう。この晴れ舞台のために市原隼人を起用したものと思われるのだ。

 『草燃える』で全成を演じたのは伊藤孝雄。大河ドラマ9作品出演。顕如、武知半平太、徳川慶喜、織田信秀、長野主膳、千利休等等俳優座12期生でもある。
 実は新納慎也と意外な共通点がある。共に大河ドラマで豊臣秀次を演じているのだ。新納は2016『真田丸』、伊藤は1971『春の坂道』である。もはや『春の坂道』の秀次を鑑賞することはできないのであるが…

北条保子(真野響子)by『草燃える』

 前述したように、政子の妹保子は『いもうと』で主役を張っていて、『草燃える』でも、夫と同様に将軍や御台所のステイタスなどに全く興味はなく、千幡を養育することこそ実権を握ることが正しいと信じパワーゲームに進んで身を投じて行く。夫との関係は夫婦愛がないわけではないが、同士的関係の方が強いのかもしれない。

『鎌倉殿の13人』の実衣は、夫が比企側に捕らえられたことで、今度は自分が捕らえられるという危険な立場に置かれてしまうが、小四郎(小栗旬)の指示で政子に匿ってもらうことにより難を免れる。かつて夫が将軍となり自分が御台所になることを夢見た時期に姉とはぎくしゃくしていた実衣だが、何とか無事に和解した。
 だが頼家の命で実衣を引き渡すことを要求し、引き下がらない近習に、何と政子は仁田忠常(高岸宏之)を呼ぶことで撃退するのだ。
 しかしこの場面は『草燃える』では違う展開を見せる。

 近習たちが保子を引き渡せと要求してくるのは同じだが、
 政子(岩下志麻)は、比企側の「全成が御所と一幡君を調伏した謀反の廉」には聞き逃せず保子を問い詰める。代わりに小四郎(松平健)が答えた。

 「比企と御所は一体、比企を倒すことはそういうことなんだ。」
比企を滅ぼすということは頼家も入っていることを自分だけはわかっていなかったということを政子は思い知らされるのだ。
 「あの大うつけはわが子ではない」なんてみんなに言質を採られていることも忘れているのに。そして今度は保子が開き直る。
 「お姉様、どうなさるおつもり?行けとおっしゃれば」参ります。でも私女ですから責められればしゃべってしまうかもしれませんよ。」するとすぐに千幡が飛んでくる。
 「局、どこにも行っちゃいけない。」保子の胸の中に飛び込んできた。保子ははじめて勝ち誇った顔を姉に見せるのだ…

本話のベースは『炎環』の4作が多い。
『いもうと』という短編や『つわものの賦』という随筆で、当時の乳母権力の強大さを明るみに出したことが永井路子の功績の1つだろう。

 その保子が後年姉政子を越えた女傑に変貌を遂げるのだが、これはその前兆なのである。
 尚、『悪禅師』での全成は、妻(北条一族)に売られたと勘繰るが、『いもうと』では夫の死に意外なくらいに落ち着いていたが、最後まで夫の助命を姉に訴えていたことは本当だ。姉の言葉一つで頼家に安達家を討つのを思いとどまらせたのだから。

 そして『鎌倉殿の13人』では頼家に助命が届き実衣への疑いは不問にし、全成の罪も一等減じられ流罪としたが、『草燃える』では形としては流罪だが、実質的には最初から死罪と決められていたようだった。

 あと気になったのは『草燃える』や『いもうと』ではあれほど千幡が活躍しているのに、『鎌倉殿の13人』では千幡の姿が忽然と消えているのだ。急に成人した実朝が現れるのだろうか?
 実朝の命名も実衣が行うのか?史実でも見せ場が沢山残っているはずなのでこのまま埋もれたりなどせず、これからも元気に姉や継母と張り合ってもらいたいものだ。

 まとめになるが、本話は、北条の比企討伐に至った経緯を視聴者に納得してもらうための回だと筆者は解釈した。あれが事実であれば当然なのであるが、やはり創作なのである。
 悪いのは能員(佐藤二朗)で、小四郎には何の落ち度もなく、比企を滅ぼすことへの大義名分を北条に与えてしまっているのだ。実際にはじめて善児を応援したという視聴者も多かったようだ。確かに能員が頼家を処分しても構わないという動機はあり得るだろうとは理解できる。まず一つは一幡が将軍になればはじめて比企が外祖父になること、筆者も恥ずかしながら今まで思い当たらなかったのだが、言われてみればそうなのだ。頼家自身には北条の血は流れているけど比企の血は一滴も流れていないのだ。平六(山本耕史)も公卿の乳母夫だが、やはり外祖父ではない。北条だけに選択肢があるのだ。もう一つは頼家が行った所領の再配分の件である。確かに概ね事実であるし、頼朝挙兵以後の新恩の所領で500町を超えた分を召し上げ、所領を持たない者に分け与えようとした件も『吾妻鏡』は認めている(正治2年12月28日条)。所領が多いのは比企だけではないが、頼家からすれば再配分のことを命じやすいのもそうだろうとは思う。でもやっぱりこれでは『吾妻鏡』よりも北条に寄り過ぎてはいないか?『草燃える』はここまで北条寄りではなかったし、頼家を暗君にしてはいたけど、北条に大義名分があるように作ってはいなかった。とはいっても『鎌倉殿の13人』でもりく(と時政)に落ち度があるので厳密に言えば北条も全てが善ということでもない。それに前話のときに触れたように、頼家が所領の絵図に線を引くことを採用したのは疑問に思ったが、本話で頼家が所領の再配分に手を付けたことに触れたのは英断だと思っている。

補足

 時連から時房、五郎の諱の改名と、去りゆく師匠平知康(矢柴俊博)による呪詛人形の発見にかけてくるのは上手い展開だ。でも五郎はちょっといい子過ぎだ。もうちょっと曲者にしてもらいたかった。同じ瀬戸康史でもNHKの2019『デジタルタトゥー』のユーチューバー役の方が五郎っぽいと思う。

「小四郎、わしらは北条側だ。安心しろ」の小太郎(横田栄司)と
「言っとくが今のところだぞ」の平六
 ここで二人のというか和田と三浦の差が鮮明に出てくる。これこそが生き残りの確率?あきらかなフラグである。

 呪詛を名乗ろうとする時政(坂東彌十郎)だが、ここまで甘い人間ではないとは思わないのだが。

 実衣を守るために政子の命で二刀を構えて近習たちを撃退する仁田忠常は、北条の巨神兵か?富士の巻狩では蘇我十郎(田邊和也)をも討ち取っている。この人も残り少ないのにそこまで使い倒すのだろうか?


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