地方の若者は教養を学ぶよりも、重機を動かし、都会人に観光案内する技術を学べ、と冨山和彦氏は言う。

 文科省の「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議」。冨山和彦委員の「共通認識を持つための資料」の中の、特に「ローカル型大学で教えるべきこと」の例示が物議をかもしている。

 私は、蒸気機関車の動態保存を行っている大井川鐵道の線路が延びる大井川流域を上流から下流まで訪ね歩いて、林業、茶業を中心とした農業に携わる人たちや地元の音楽指導者、自治会長、自治体職員、産業遺産への興味からイギリスの産業遺産保存・活用学専攻の大学院に留学した若者まで、地域の良さを見つけ、それを育てることで地域の再生に取り組む人たちを取材してきた。

 これらの人たちと話して深い印象に残ったのは、みな、学歴に関係なく「教養人」であるということだ。高等小学校までしか行かなくても、彼らは山や畑、場合によっては戦争(シベリア抑留5年のすさまじい経験をした人がいた)、そして人と人とのつながりから深く学んでいる。その「教養」があってはじめて、自分が携わっているモノやことがらの意味をきわめ、新しい価値を産み、発信し、人を動かし、場合によっては残すか捨てるかを判断することができるのだ。

 私の書いた『鉄道技術者白井昭』(平凡社)のメインは、鉄道を文化ととらえ、パノラマカー、東京モノレール、蒸気機関車保存と、時代や地域に求められる「鉄道のかたち」を追求してきた技術者の物語だが、白井氏を囲む大井川流域の人たちが地域再生に取り組む「豊かな」物語をサブテーマとして、鉄道を軸に、それらが白井氏の思想と共鳴し合うさまを描いたつもりだ。

 さて、冨山氏の分析は、グローバルとローカルに経済を分け、それに応じた高等教育の提案という形で進められる。経済の分析にしてからが、都市と地方を対立構造として捉えられているように見えるが、「Lの世界」(ローカルのことだ)は、「Gの世界」(グローバルだ)の従属物ではない。冨山氏が示している「Lの世界の学び」は、これから始めるべきものではなく、すでに実態となっている。都市が地方の養分を吸い上げるモデル、地方が都市に従属するモデルを追認したものにすぎない。
 「文学」を学ぶのではなく、「観光業で必要となる英語、地元の歴史・文化の名所説明力」を学べと冨山氏は言う。バカにしてはいけない。地元の歴史や文化を説明するのに、教養にもとづく方法論がベースになくてどうするのか。

 地方にこそ「教養」が必要だ。私はそう思う。
 冨山氏こそが、教養のない「田舎者」である。

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