毛利甚八さんのこと

「俺は(『家栽の人』を)400万部売ったんだ。お前はどうだ?」

これが、初対面の挨拶である。いくらなんでも傲岸不遜ではないか。
難しいものを難しく伝えるのは簡単だ。毛利甚八さんは、まったく違う世界からやってきて、裁判や司法の世界の本質を掴みだして見せた。文字に起こせば因縁に近いけれど、毛利さんがしてきたような努力を怠り、タコツボの中にいるくせにネームバリューに寄りかかろうと原稿を頼んでくるわれわれ不勉強な編集者に対する苛立ちだと感じた。ゲラに一字一句でも編集者が手を入れている痕跡があったら、怒って原稿を引き揚げてしまうのが常。これも、表現を磨き上げることに無頓着な人間への怒りだろう。

誰もが安心するあの柔和な顔、そして物腰の裏には、強烈な物書きとしての意識があった。

「ようし」と、とっても未熟な編集者であった私は奮起した。そして、「世になにかを訴えるには、何らかのエンターテイメント性が必要だ」という教訓を、そこから盗み取った。

今見ると稚拙だが一生懸命に考えた『裁判官だって、しゃべりたい!』と、軽みの境地としてはそこそこ成功したと思われる『少年裁判官ノオト』は、ここから発想が始まっている。

『少年裁判官ノオト』の企画段階で、少年Aの事件をどのように扱ったらよいかと悩んでいたときだ。(誰かに相談したい。毛利さんがいたなら……)と思いながら昌平橋の下を歩いていたら、豊後高田にいるはずのもじゃもじゃ頭が向こうから来るではないか。「やあ。毛利です」。法務省の会議で上京していたのだ。早速、深夜の酒場で相談。答えは「思ったようにやれ」だったと記憶している。吹っ切れたのであの本は思うさま作りあげられ、関係者とのトラブルがなかったのも、そのアドバイスのおかげで肩の力が抜けて全体が見渡せ、目を配れたからだと思っている。変化球のふりした剛速球『永山則夫 聞こえなかった言葉』は、「命がけで書いている」と評してもらった。規模は400万の足元にも及ばないが、「伝わる幸せ」を噛みしめられた。
会社を辞めてからゴーストで書いた本の筆者が私であると、ただ一人見抜いてくれたのも毛利さんだ。「よくもこんなに自分を殺せるなあ。俺にはできない」と、変な褒められ方をした。

遺作となった『「家栽の人」から君への遺言』は怖い本だ。司法の外部から来て、『家栽の人』を作った毛利さんは、少年院の法務教官や家裁判事、家裁調査官などの専門家だけではなく、非行少年とも直接交流するようになった。篤志面接委員として中津少年院で少年たちに「歌」を教えながら、そのまなざしは内在化され、少年法の精神が崩れていくタイミングに起きた佐世保の高校生による同級生殺害事件でのやむにやまれぬアピールにつながっていく。最高裁に要望書を手渡し、記者会見する毛利さんの身体は相当に蝕まれており、記述はいつか闘病記となるが、病気を少年と同じ、「コントロールしきれない存在」として捉え、まるで人格があるように接しているのに慄然とした。首元に刃物を突きつけられる思いにさせられた。
このことの意味は、いずれ改めて書いてみたいと思う。
読了して震えていたら、担当編集者の方が同じ本を送ってくださった。お礼の連絡をしなければと思うがなかなかできない。「その日」が間もなくやって来る、という思いが、私を竦ませていたのである。

だが、というか、やはり、というか。思ったより早く、その日が来てしまった。


『遺言』には返事をしなければいけない。私は、そう強く思う。
間に合わなかったのは悔しい。だが、一歩は既に踏み出した。
誰に何と言われようとも、この仕事はやり遂げる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?