ふくしまの“春”
2011年5月3日、憲法記念日。
原発事故の避難所になっていた、見本市会場のふくしまビッグパレットを覗いた。フロアだけでなく廊下までいっぱいに、2000人が段ボールの薄い壁だけで詰め込まれていた事故直後から比べると、仮設住宅やアパートへほとんど退去して、残った人たちは、紙管で組まれた本格的な仕切りのある「長屋」に暮らしていた。アラブ系の人たちがカレーの炊き出しに来ていて、「コンニチワ」と私に挨拶した。
でっかいベンツが迎えにきて、昼飯を食いに行こうという。
この人は一度沖縄まで避難したが、結局郡山のアパートに戻ってきたのだという。すげぇ。こんな高級なベンツ、乗ったことがない。乗り味を楽しんでやろう。だが、あまりにもオーナーの運転が下手で、そればかりが気になって目的地まで楽しめなかった。ちぐはぐな感じをもつ。
低い山の尾根にある料理屋に集まったのは、原発事故で避難を余儀なくされている人たち。いわきの親戚に身を寄せたり、アパートを探していたり、仕事はさまざま、状況もさまざまだ。
お膳の料理はキノコや山菜づくしだ。たらの芽などの天ぷらも次々に揚がってくる。みんな、目を輝かせ、舌鼓を打ちながら食べている。
このあたりの人たちは春に山菜採りを楽しみ、それが普通に食卓に上がる。だが山林は放射性物質の降下物が堆積しており、山菜採りやタケノコ掘りは禁止となった。
では、なぜこの店では山菜料理が食べられるのか?
店の主人はもともと農業指導員だった。ある日、「中国にも日本と同じ山菜が生えているのではないか?」と考え、中国東北部を中心に広い国土を歩いて調べた。案の定同じ山菜やキノコが、いろいろなところに生えているではないか。地元の農家と契約し、直送してもらうことでコストを下げ、大量買い付けのある外食産業と次々と取引を開始し、大きな会社となったのだ。 まさか、この事故を想定していたとは思えないが、季節になると自宅兼店舗を開放して出していた山菜料理が、震災の春は、ふくしまの人たちにことさら喜ばれることになった。
「マツタケなんかも中国に生えてるんですか」
「ある」
「いくらぐらいなんですか」
「それは、教えられないよ」
相当安いに違いない。
今日の食卓に並んでいるのは、すべてが中国産の山菜やキノコだ。かつて、気味悪がれていた中国産の山菜が、いまや一番安全な食材になってしまった。店の裏の山に入れば、同じものが取り放題だ。だが、いまそれを口にするわけにはいかない。
「今年は、ふくしまに“春”が来なかったね」
盛り上がった山菜談義が一段落して、沈黙が流れた。富岡から避難しているという女性がぽつりと言った。
来年、再来年、再来再来年。
ふくしまに“春”が来るのはいつのことになるのだろうか。
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