小説で歴史を修正できるか——百田尚樹『永遠の0』もうひとつの狙い

百田尚樹の小説『永遠の0』が「パクリ疑惑」としてネット上で指弾されている。

私は調査報道に関わり、ノンフィクションも手がける、事実に立脚したものを書く人間である。そんな立場からは、「まあこういうものだろう」という、作者に対するやや同情的な思いと、「一線を踏み越えた作品だ」と危惧する思いとが相半ばする。本作は非常に巧妙な「小説」であり、だからこそ、大きな「危うさ」をはらんでいる。それが問題の本質だと私は考える。

まず、ネットで指摘されている「パクリ疑惑」について検討しよう。
事実をもとにした小説は史実をもとに構成せざるを得ないので、独自の取材を重ねるのでなければ、実際の戦闘については誰かの戦記・体験記を借りるしかない。実在の戦記の記述と同じ部分がぼろぼろ出てくるのは、作者の実力という、やや別の問題である。下敷きにした作品・作者への礼儀がきちんとできているかどうかが、「パクリ」という問題性のあるなしを分けるポイントになる。

本書のストーリーは、主人公の姉弟が自分の「本当の」祖父の特攻のいきさつを、生き残りの同僚たちを訪ね歩くことで知っていき、最初「腰抜け」と罵られていた祖父が秘めていた本当の狙いを知るという構造だ。姉弟はだんだん、同僚の中でもそこに込められた考えや思いを深く知る証言者に迫り、最後は「神の視点」から、彼らがたどりついた仮説が正しいことが描写される。そして主人公たちは、戦友の篤い友情、その事情を秘めながら戦後を生きた自分の「義理の」家族の深い家族愛に気づかされるのだ。

構造自体はとてもよくできている。『壬生義士伝』(浅田次郎)との類似が指摘されているが、構成を借りるのは百田本人も「オマージュ」と言うように文芸の世界では時折行われており(そして放送作家の世界でそれは露骨に行われているが)、構成そのものについては著作権の保護の対象でもない。だから法律違反には当たらない。

「借りてくる」のは小説だからこそ許される。
もし、この作品がノンフィクション作品として刊行されていたなら、本作はいま言われているような指摘を受けてたちまち蜂の巣になったであろう。だが、小説ならクリア可能だ。ここに作者の巧妙さがある。

一方、私が危険だと感じるのは、いまネットで検証されているところとは別にある。

本書のもう一つの主要ストーリーは、主人公の姉弟が、「取材することで『真実』を自ら掴み取っていく」ことで「戦後自虐史観から脱洗脳される」過程である。戦後世代がほとんど全てと言っていい読者は、姉弟に感情移入してそれを追体験することになる。そういうふうにできている。さらに、朝日新聞とおぼしき底の浅い新聞記者が戦後の歴史認識の狂言回しとして登場し、姉弟が迫っていく「真実」の前にみっともない敗北を喫する。

百田は本書を「小説」であると言う。だから、どんな登場人物が出てきたところで何も問題はない。だが、百田は、この小説が持つ左翼史観から歴史修正主義への誘導という構造を、著名人やNHK経営委員の肩書きを持つことで、プロパガンダの材料として使うようになった。これが、事実が確認できなければ何も書けない立場であるノンフィクションの世界に身を置く私が覚える、違和感の最たるものである。

私も戦後の東西対立の中で日本人が涵養してきた歴史観、そして左翼史観には見直すべきではないかと思う部分もあるし、辟易するところも多いと思っている。だが、「修正」の材料は「事実」に基づくものであることが絶対に必要である。この小説の危うさは、「事実」と「虚構」を織り交ぜて、全体的に事実であると読者に思わせるその構造自体にある。おそらくそのような効果を狙って書かれたものなのだろうと私は思う。自ら歴史観を考え、組み立てる力が弱い、あるいは弱くさせられている日本人の弱点を突いている。

経済小説を中心にベストセラーを放つ作家の黒木亮氏が「小説の発表時期や内容は、時代に合わせなければ世の中に影響を与えることはできない」と言われたのを聞いたことがある。その意味で『永遠の0』は、戦争経験者がほとんど鬼籍に入り、世代が入れ替わった絶妙なタイミングで世に出てきた。その巧妙さは認めよう。これだけ「事実」と「虚構」の使い分けができる同一人物が、やしきたかじん氏とその妻を扱った『殉愛』をノンフィクションと銘打ったために、事実かどうか大変な物議をかもし炎上することになった理由はどうにも不可解であるけれど。

ノンフィクションの世界に生きる者は、「事実」を世の中に問う仕事によりいっそう磨きをかけて、奮起しなければいけない。そう思うのだ。

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