25歳になった私が、『13歳のハローワーク』をもういちど開く理由
2019年11月2日 15:51
25歳のわたしは、本棚から誇りのかぶった『13歳のハローワーク』(村上龍 , 2003)を引っ張り出す。そして、その5ページにわたる「はじめに」を読んで衝撃を受ける。
そして思い出す。
はじめてこの大きな本を手にとった、13歳のわたしを。
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2007年11月4日 13:51
13歳だった私は、村上龍の『13歳のハローワーク』を手にとった。
『13歳のハローワーク』は、主に中学生たちに向けて書かれた、オールカラーの職業の百科図鑑のような本だ。まだ見ぬ未来を生きる我が子の将来に、少しでも期待と関心がある多くの家庭が購入した、ベストセラーだ。2歳ずつ違いの4人姉妹をもつ我が家にも、この大きな本はもれなく存在した。
この本が他の類似本と違うところは、「○○になるには」と職業名で区切ってしまうのではなくて、「△△が好き」というふうに章を分けているところだ。14歳の「わたし」が「何が好きなのか」という問いから、具体的な職業の本質的な「仕事内容」を語っている。そう、私たちはいわゆる「ゆとり世代」だ。
私はさっそく、「文章が好き」というところをめくった。小さなころから本を読むことが好きで、自分で物語を書いたり友達と交換したりするのが何よりも好きだった。
もしかしたら、作家になりたいかもしれない、とひそかに思っていた。しかし、国語の授業で張り切って創作を始めた猫たちの宇宙大戦争の物語は延々に決着がつかず、原稿用紙200枚を超えていた。落としどころがわからず、誰にも見せられずにいた。先生や同級生からの評価が気になる年頃でもあった。どうやったら物語を書く人になれるのだろうと、こっそりページをめくった。
すると、「作家」という欄に書いてあったのは予想外のことだった。
作家になる方法を知りたかった13歳の私は、作家である村上龍から「とりあえず今はほかのことに目を向けたほうがいいですよ」とアドバイスされたのだ。衝撃であった。なんじゃそりゃ、と思った。
作家という生き方は、最後の砦。
13歳だったわたしにとって、彼が書いていることがちゃんとわかったとは言い難かった。けれども、「伝える必要と価値のある情報」という言葉は、こころにひっかかった。これ、重要かも。「伝える必要と価値のある情報」らしきものを、おそらくわたしはまだ手にしていなかった。それはどうしたら手に入るものなのだろう?
当時、わたしは授業とは別に、給食の牛乳用のストローたちの人生を描く物語のシリーズを絶賛執筆中であった。ストローが人間のように心と頭をもって生きていたら、彼らの人生についてどう思っているかな、と想像力を膨らませて書いていた。現実の自分とはまるで違う目線から世の中を書いてみるのは、面白かった。
13歳のわたしが、誰かに対して「伝える必要と価値のある情報」を伝えるために書いていたのではないのは明らかだった。それはきっと、どこまでも子供の遊びなのだった。「将来の夢」を書く準備はできていても、「仕事」というのは遠くにあって、漠然としていてよく分からない。「伝える必要と価値のある情報」とは一体どんなもので、どうやったら手に入るのか、当時のわたしにとって全く不透明な道のりであった。
そのころ読んだ数多くの本のなかの言葉と同じように、わたしはその言葉をいったん脇に置いておくことにした。そうして、思えばずっと、平和に好きに生きてきた。
高校生の頃は、スパイスからカレーを作るのが趣味だった。カレーを作りながら、こんなものを毎日食べているインド人は何考えてるんだろう、と思った。インド哲学の第一人者の先生の本を読んで、摩訶不思議なインドの精神世界に憧れを抱くようになった。ようし、インド哲学をしようと、その先生のいる京大の文学部に入った。
入学すると、インドに行きたいと思ったが、母がだめえ、と泣き顔で言うのでしかたなくインド「ネシア」に行った。日本語教師のボランティアだ。それが性に合い、長期休みのたびに、アジアの途上国の田舎で過ごすようになった。たくさんの子どもたちと過ごす、自給自足の村での暮らし。言葉はすぐに覚えた。楽しかった。特に農作業は新鮮でやりがいもあり楽しかった。
本を読むばかりの「勉強」に突破できない壁を感じて、大学を1年間休んだ。かわりに地元の富山県の農場で農作業をした。雪が降ったら仕事がなくなるのでインドに行った。インドでわたしは、少数民族の女性が毎日どのようにカレーを作るかを見た。村でどんな作物が育てられているかを見た。すべてのスパイスが庭に植わっているのを見た。世界は広く、すべてが新鮮で、すべてがインドだった。
旅先では摩訶不思議な現場が常に目の前に広がっていた。けれども、いったい全体なんでこんなことになっているのか、よそ者のわたしにはまったく分からなかった。世界は全部つながっているはずなのにそこは全く違う宇宙の星のようだった。つかみどころがない。悔しい、勉強しなきゃ、と思った。物事を考えるにはあまりにも何も知らなすぎた。そうかこのために勉強するのか、と思った。
3年生からは、地理学研究室に入った。ゼミの発表では、インドや南米の農山村で行われる近代的な開発によって、人の暮らしや農業がどのように変わるか、というような論文について読んで話した。知らずに重鎮の重厚な文章を選んで、先生に「おまえなんもわかってへんやん」的なことを言われたりもした。己の未熟さを知らぬ若者は恥を晒すことしかできない。分からないけれどもそういったテーマについて書かれたものに片っ端から当たっていた。目の前に広がる世界に対して、自分が紡ぐ言葉の処理能力はどうしようもなく小さく、またインドに行くことでしか、学んでいる実感は得られなかった。
ふと、ここで本を書いてみませんか、と言ってくる人がいた。カレー部という名前のカレーサークルで、ときどき開いていた間借りのカレー屋の常連さんだった。彼はフリーの編集者で、本を書いたらおもしろそうな人と本の企画を作り、出版社に持ち込むのが仕事だった。彼には、わたしがカレーにのめり込んでいる妙な女子大生に見えたに違いない。
ここで私は、13歳のころ作家になりたいと思っていたことを思い出した。なるほど、こういうことか村上さん。わたしはカレーを作るのが趣味の普通の女子高生だった。でも少しだけ普通じゃなかったのは、その時々で興味があることに全力で手を伸ばしてきたことだ。時間ぎりぎりまで旅をして、本を買って。はっきりいって、一文無しだった。でもいつだって話すことはたくさんあったし、興味の矛先は次々と広がっていた。
私は、カレーの話を書いた。カレーサークルとして全国のお祭りに出店した話。どんな地域に行って、どんな農家と野菜に出会って、どんなカレーにしたか。カレーライスのライスの部分の話。富山の農場では、どんな風にお米を育てていたか。スパイスの話。スパイスは、インドでどうやって育てられているか。
新たに取材した内容もあった。京大付近のカレー屋さんの話。大学の周りには、どんなカレーを出すお店があるか。日本で唯一のタンドール窯メーカーの社長さんに、日本のインド料理界黎明期の知られざる逸話を聞きに行ったりもした。これらは、編集担当のアイデアだった。
はじめての出版は、すごく、大変だった。執筆は全く思うように進まず、もう締め切りもとうに過ぎた最後の2週間は、学校にも行かず、部屋にこもって昼夜問わず書いていた。そうして第一版の原稿を提出したあとは、謎の体調不良に悩まされた。突然の吐き気や不安感、何かがつっかえたようなのどの違和感、胸の痛み。体重が4キロ落ちた。授業中に気分が悪くなり、そのまま大学病院の救急にかかったこともあった。検査中の女医さんの優しい声を覚えている。けれども、検査の結果は異状なし。貧血でもなかった。それでも、電車に乗ると吐き気がして通学できないときもあった。
出版すると、取材やPRイベントに忙しくなった。それらは、もちろん「著者の責任」として、まっとうせねばならないものだった。素人が書籍を出版するということは、周囲にとって、まったくのお祭り騒ぎである。そもそもカレーはみんなが好きなものだ。しかも、それに「京大」とくると謎の箔がつく。やばい。
残念ながら、わたしのカレーはプロの味ではなかった。ただ、素人学生が「スパイスからカレーを作りましたうぇーい」とやっているだけなのだから、当然といえば当然である。看板だけで売ってきた、それなりの味だ。メディアの取材で、インドによく行っていたというと、「インドにまでカレーの修行に行った女子大生」という書かれ方をする。わたしは計2年間インドに行っていたが、料理の修行をしたことなど一度もない。
まあそんなギャップは、出版社や書店やメディアには、関係のないことだ。地元の同級生や地域のひとにとってもそうだ。たとえ求められているものに答えられる自信がなくても、こんなわたしが本を出版できたというのはすごいことだし、取材は受けるべきだし、人前で話すべきだし、食べたいと言ってくれる人には、カレーを作ってあげるべきだ、と思った。
そうして「カレー少女」であることは、わたしの「仕事」になった。せっかく出版してもらった、本を売るための。わたしはみんなががっかりしない「コンテンツ」であろうとした。が、それは到底実情にそぐわないものであった。精一杯やればやるだけ、自分の実力のなさに絶望した。13歳のわたしが、誰かに対して「伝える必要と価値のある情報」を伝えるために書いていたのではないのと同じように、カレーサークルもやはりどこまでも子供の遊びだったのだろう。これもまた、本当の仕事にはほど遠いものだったのだ。
大学生のあいだは、研究者になりたいと漠然とおもっていた。興味のあった学会のオープンの講義に参加して研究者と話したり、研究のアプローチや調査の方法を自分なりにいろいろ調べたりした。実際に行ったことがある地域の事柄についてより詳しい人の話は面白かった。
でも、研究は目の前の不合理を書きとめて残して世界的な議題に上げることはできても、ほとんどの人が読まないし、実際に目の前の困った光景をいいほうに変えていくことはできないと感じていた。世界で一冊の巨大な本の、たった一行を、生涯をかけて書く。研究職って、そういう仕事なんだろう、と思っていた。
私は、現実の小さな村の、課題解決の現場に携わりたかった。現場で専門性をもって、現場をよいほうへ変えるために働きたかった。それまでも、調査のためにNGOの現場は訪れていた。大学の休み期間だけだったけれど、それぞれの現場で手伝いをした。現場はどこも困難だった。
もちろん、責任も権利もほとんどない、インターンという立場ではあった。それでも大学生活をかけて、「現場でひととかかわる」ということを、散々やってきた。どこも資金難に苦しんでいて、現状維持ではしりすぼみになるのは目に見えていた。現場で求められていたのは、ビジネススキルだった。
新しくモノを作って売る、というわかりやすいゼロイチの「仕事」が求められていた。それができれば、現場を変えていくほうに働きかけることができると思った。実際に事業を作り、目の前の光景を変えていく人になるために、ボーダレスが一番早いと考え、入社を決めた。
配属先は、宮崎の田舎町の新米農家。インドネシア、インド、富山での計1年間の農業研修経験があったので、農作業には自信があった。同じような小さな町の出身だったので、田舎暮らしにもすぐ慣れるだろうと思った。この会社は私のためにある、と思った。以前の研修先の農家よりも、経営に近いところで、作付け計画などを担当させてもらった。
でも楓ちゃんは全力でやっていないといわれた。知っている世界で同じようなことをやるということは、既知の世界で安住してしまいがちという落とし穴があったのかもしれない。職業として作業して給与をもらうということに、悪い意味で慣れてしまっていたのかもしれない。あるいは、人の気持ちはさておいて理論の構築を優先すべきだとする態度が、頭でっかちの学生評論家というふうに映ったのかもしれない。
入社して4か月で仕事をやめ、インドへ渡った。インドの恋人と暮らすためだった。山奥の彼の故郷で一緒に暮らすために、いろいろなビジネスのアイディアを考えた。しかし、数か月で煮詰まった。恋人もわたしも仕事がなかった。ふたりで、小さな部屋を借り、わたしの貯金で暮らしていた。彼は、たばこを買う2ルピーさえ、持っていないことがあった。
そういった状況は、彼を狂わせた。彼は嫉妬深く、怒りっぽく、小さなことでキレるようになった。わたしも、生まれて初めてキレた。思春期の男の子が、壁に穴をあけたくなる気持ちがわかった。ちゃぶ台をひっくり返すオヤジの気持ちがわかった。どうしようもなく、むしゃくしゃした。こころが、乾燥して、しわしわになった。ひび割れは少しずつ進行した。
そして、ある日とつぜん粉々になった。当時わたしはグルガオンの八百屋スタートアップでインターンとして働いていた。農産物小売を学んで、彼の故郷の特産品を販売するというビジネスを考えていた。思えばなんでもひとりでしょい込みすぎていた。すべてをその夢にかけていたのだ。わたしは発狂した。とにかく、どうすることもできず、実家に帰った。幸か不幸か、少なくとも私はまだ24歳で、迎え入れてくれる家族がいた。
8か月、245日。わたしは、なんでダメになってしまったのか、考えた。毎晩泣いたりもした。電話して、喧嘩もした。相手の弁明を聞いたりもした。わたしは考えた。なんでこうなったのか。わたしの夢はどこに行ったのか。理由が必要だった。この状況に納得しなければならなかった。それは到底不可能なことだった。
あのとき、わたしの目の前にあったのはヒヤシンスの球根と、雑草の種だったのか?わたしはバケツ一杯の水を、いっぺんに雑草にかけたのか?そして洪水をおこし種を流してしまったのか?いったい何のために?
あるいは、雑草はつよく自力で花をさかせるのだから、わたしはあのバケツの水を朝夕二回、毎日少しずつ、丁寧にヒヤシンスの球根にかけてやるべきだったのか?
腑に落ちないと前に進めないたちだった。ともかく、8か月もたてば、嘆き悲しむことや、状況を分析しようと試みることには飽きた。割れて粉々になった、と感じていたこころの残骸の中から、なにか核のようなものがある気がしてきた。
まだ、そういう「気配」がするだけで、まったくつかめてはいないわけだが。
2019年11月2日 15:55
冒頭のシーンに戻ろう。25歳のわたしは、本棚から誇りのかぶった『13歳のハローワーク』を引っ張り出した。そして、その5ページにわたる「はじめに」を読んで衝撃を受けている。
そう、私は好奇心を指針として生きてきたのである。
それをミーハーというのかもしれない。私はミーハーなのである。それを忘れてはいけない。ともかく、好奇心を失ってしまったら、死んだも同然なのである。粉々になったこころの残骸の中に、確かに感じるわたしらしさのかけらとは、好奇心という名のこころのコンパスだったのだ。
20歳にせよ、18歳にせよ、「ある年齢を過ぎたらおとなになる」なんて嘘だ。たしかに、わたしたち日本国民は、法律上否応もなく、その年齢が来れば自動的に「大人」になる。「大人」としての権利を得て、責任をまっとうすべき存在となる。大学を卒業すれば、いくつかの決定的に思える「べき論」が周りを固めていく。
でも。わたしたちが思い描いていたおとなは。村上龍の言葉を借りれば、「自分の好きな仕事、自分に向いている仕事で生活の糧を得ている人」だ。わたしたちが描いていた「将来の夢」は、職業がなんであれ、おとなとしての充実した人生だったはずだ。
その道を目指すことに、年齢はあまり関係ないのかもしれない。このままでいいのか。これが、本当にやりたかったことなのか。ロールモデルのいない、正解のない世界で、簡単に挫折してしまう。なにものにもなっていないのに、自分を見失ったと感じてしまう20代は多い。あたまの中が「べき論」でいっぱいになって、身動きが取れなくなってしまう。道が、見えない。
そんなときは、もう一度『13歳のハローワーク』を開いてみよう。
あらゆる好奇心を、この偉い人が書いた大きな本は決して否定しないから。
この長いまっくらなトンネルの中にも、入り口があったことを思い出そう。自分がどれだけの道のりを歩いてきたのか確認しよう。
好奇心。それこそが、おとなになるための道を自分で見つけ出すために、子どもが唯一もっているコンパスなのだ。大丈夫、あなたの中にも必ずある。こころの深いところで、小さくともずっと灯っていたあかり。
それは、小さな女の子の姿をしているかもしれない。なんで、なんでといつも考えている7歳の女の子。みつけたら、その子に教えてあげよう。
「どんなに知ることや考えることを否定されたとしても、それはいろいろな「大人」の事情のせいなんだ。大丈夫、わたしは知恵を絞って、あなたを守ってあげる、おとなのお姉さんだよ。」
そしてまた、この世界を一緒に冒険しよう。