AIを自分が使うと不安だけど他人が使うのは気にならない話

先日ふと絵を描きまして。
まあなんというか毎回自己採点で40点なんです。上達しようという意志も覚悟も無いので成長しないのですが、まあ悔しさはいっちょ前にあり、ふとAIに変換してもらったらめっちゃいい。
それそれ!てなりました。すごいなあ。

勿論完璧ではないし、ここはこうしたい、というところもありますし、あとはこれを描く感覚を掴みたいなってのもあって、基本トレスの一部アレンジとかしてみようかなーと思ってます。

ここで私が子供の頃はそこで完結だったのですが、今は創作したらネットに出すのがデフォルト。
おっといけないそんなトレス作なんて世に出しちゃだめたあくまで自分だけで完結する習作としてやらないと、と考えが進む訳です。

※余談ながら、「出せないならやめようかな…」まで考えてしまうから恐ろしいです。もっとプリミティブにやりたいことをやらないとなあ

ということで、「AI」と「トレス」がイラストのタブーのような感覚がいつの間にかインプットされております。いやそこは何か良き未来を期待してるのですが、危うきに近寄らず姿勢になっちゃいます。

で、ここでふと逆のパターンを想像してみたらちょっと感覚が違うことに気付きました。

AI作曲してる人がいたら普通に楽しめる

私の本分は作曲なので、音楽の分野に変換し、更に自分ではなく他人がしたときのことを考えます。

「AIに作曲・編曲してもらったものを少しアレンジしたオリジナル曲です!」

…全く引っかかりを感じないのです。
1ミリも否定的な考えに行き着かない。
それで商業活動されていても、それでも何も違和感を覚えなかったりします。私だけ?

作品を見る時は作品に興味がある

元々の私の性根といいますか、根本といいますか、考え方が「作品を見る時は作品に興味がある」というのがあります。表現が難しいのですが…

つまり作家そのものを求めないということです。面白い、好き、という作品に出会えば出自はどうでもいいといいますか。

作者に興味が無いわけではないのも確かなのでそこはややこしいのですが、まあどんな思考で、どんな歴史を紡いで、どうやって生むのか、というのは大変興味を持ちます。作品の作家性も楽しみます。
ただなんというか、「めっちゃ好きな曲の作者がTVのバラエティ番組に出てる」時に見る興味が皆無、みたいな感じです。「めっちゃ好きな作者が政治ツイートしまくってる」もどうでもいいやつです。いや思考思想は興味あります。ただその人そのものの評価が作品とは一切リンクしないといいましょうか。

興味のある作品がそこにあればそれで良い

AIに頼ろうが既存の正統派技術を持たずに大成功しようがまあ特に関係なく単純に興味をひく存在がそこにあればそれを楽しむだけだなあ、という結論になりました。

これが「自分がやるのは不安」と「他人がやるのはどうでもいい」の差なんだろうなあと感じます。

自分がAI使うとしたら

AIに限らず、作曲はアルゴリズム作曲、自動作曲、などといった技法があるわけですが、いづれにせよ「そのシステム自体を自作しチューニングした」ものを使うのであれば使いたいなあと思います。
自動作曲の自動の部分を自作していればちゃんとオリジナルで居られる気がします。これは個人的な感覚ですが。

AIなんて使わずに自力で作曲していてもそれは先人の積み上げた様々な技法を利用してる部分が多く、オリジナリティを考えだしたらキリがありません。

結局のところ作者自身が「自分の作品だ」と思える事が創作の根底にあるのかな、と思いました。
芸術は法も大切だけど、その前に誇りがあってこそ成り立つのでしょう。



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