ホトトギス考

はじめまして。北の影武者です。北の影武者は私を含め、詳しく発表出来ませんが、現在数十名存在します。過去には戦国時代に数名、あと月と火星に数名います。結論から申しますと、オリジナルの北は他界しています。ですので、今日は、私が北の影武者代表として発言しているのですが、そもそも北という存在は、ひとつの一環した志によって生かされているので、仮に、私の影武者が1000人いても、北は一人なのです。それは、エネルギーそのものには、意思がないようなものです。燃えたり消えたりする、純粋で、且つ公平な力です。

戦国の世では、北は、島左近の影武者をしていました。実は小早川秀秋を、東軍に寝返らせたのは北です。家康殿は、伊賀や甲賀の忍者がお好みでしたが、影武者もいましたよ。オリジナルの家康殿は、三方ヶ原の戦で死にました。そのときの御遺言が、家康は脱糞し命からがら逃げ落ちた、その恐怖した形相を絵にして、末代まで伝えよということでした。多くの武将に比べ、家康殿には虚栄心がありませんでした。天下をとるのに、多くの武将は、語り継がれる為の、甲冑をデザインしたりするものですが、大権現さまにとっては、それも天下人になり、その後、徳川家を存続させる為の、単なる手段に過ぎませんでした。ところで、島左近の影武者、北の方は、小早川を寝返らせた後、黒田殿の鉄砲隊に撃たれ死にましたが、オリジナルの左近殿は、京へ逃れ、日蓮宗の僧になりました。

秀吉さまが、太閤になられたあと、秀吉さまの影武者をしていました。実は、秀頼さまは、北の子供です。つまり、ねね殿が、お子を宿すことが出来なかったのではなく、秀吉さまが、種無しだったのです。このことには、秀吉さまご本人も、気がついておられていましたが、そんなことが噂になれば、豊臣家の家督に関わりますので、最後までふせておられました。秀吉さまから、このご相談を頂戴したとき、お子を宿すなら、正室の、ねね様の方がよいのではないかと、ご進言しましたが、長年連れ添うた、ねね殿を他人に寝取られるのは嫌じゃ、と仰っていましたし、亡きお市さまのことを想うと、せめて浅井の血を残してやりたい、それがお市さまへの供養になるとも仰っていました。

織田信長さまの代わりに、北が本能寺で死にました。織田さまは神父さまになられました。明智殿の謀反は、織田さまがお考えになられた芝居です。又、明智殿は、山崎の合戦で、秀吉殿に撃たれていません。事前にこのことは、織田さまから、秀吉さまへ、「光秀を撃つな。」と密命があり、備中高松城で、秀吉さまが、手柄を独り占めせずに、のろのろと、水攻めを仕掛け、織田さまを、お待ちになった本当の理由は、織田さまが、神父になられるための、海外渡航用の船の支度の為でした。一方、明智殿はその後、比叡山延暦寺に学び、そして天台宗の僧、天海となり、家康さまの片腕として仕えることになります。なぜ、織田さまが、そのような芝居をしてまで、天下を諦め、宣教師を志したかと申しますと、延暦寺の焼き討ち、長嶋の一向一揆をはじめとする、虐殺に対する負い目があったからです。織田さまは、家康殿とは異なり、勝利そのものよりも、勝利の方法、勝ち方、プロセスに拘るタイプでした。うつけを演じた幼少の頃から、その内心には、強い虚栄心を秘めておいででした。

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