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"くらやみ"と"ひかり"

最近、色々な人たちと話をしていて、自分は何がやりたいのかなと昔より真剣に考えるようになりました。そんなことを考えていたら、下記のようなちょっとダラダラした文章を書いてしまいました。

CATSというミュージカルが好きでしばしば劇団四季の公演に足を運びます(ブロードウェイにはまだ行ったことが無いのですが...行ってみたい!!)。CATSのストーリー(というほどストーリー性はないのですが)を一言で要約すると”猫の幸せ自慢大会”。月夜の舞踏会で栄誉ある”ジェリクルキャッツ”に選ばれるため、様々な猫たちが幸せ自慢を繰り広げます。そんな数々の猫たちの中で栄えあるジェリクルキャッツに選ばれたのは、みなから疎まれ、嫌われていた娼婦猫のイザベラ。なぜ煌びやかな人生を歩んできた他の猫ではなく、彼女が選ばれたのか。それはイザベラが魂を込めて歌う”memory"という歌が天上の音楽のように美しいから。どんなに辛く苦渋に満ちた人生を歩んでいても、世代を超えて多くの猫(?)たちの心に響く歌に己の人生を昇華させたイザベラの営みこそが”幸せの姿”だという哲学がCATSの根底に流れているように思います。

この世界に光と闇があるとして、なんとなく前者が”求めるべきもの”、後者が”世界から消していくべきもの”と我々は考えがちです。僕だってめっちゃゆるーい世界観が好きで、バッドエンドの映画とか全く観たくありません。

でもすべての人が光に甘んじて生きられるわけではないのだな、と最近強く感じるようになりました。あえて暖かい光の世界を飛び出して、孤独な闇の世界に飛び出していく人々は、決して光を得るための手段として船を漕いでいるのではなく、その営み自体が目的なのでしょう。我々はつい物語的に闇の向こう側に光が待っているような起承転結なハッピーエンドを求めがちだけど、現実には多くの旅人は最後まで光を得ることがなく闇の海に消えていくのかもしれない。だけど我々の世界は無数の孤独な旅人たちの営みが地層のように積みあがって前進してきたのだと思う。そしてそれらの旅人を突き動かしてきたのは、暗闇を見つめ続けた人にしか感じることができない”人生の幸せ”なのかもしれない。僕にはなかなかそういうストイックな価値観がまだまだ分からないのだけど...。

「闇と向かい続けることが人類の宿命である」、こう聞くと絶望を感じる人もいるかもしれません。でも闇を見ないで、光にしか目を向けない世界こそ実は空虚で絶望的な箱庭なのかもしれない。目先の光の誘惑に負けず、はてしない闇を凝視する人々、そういう人たちはまさにこの世の希望であり、それらを後ろから”あざとくなく”そっと包んで支えるのが本来の光の役割なのだと思います。光は”主役”なのではなく、あくまでもこの世界を動かすための”脇役”、闇に向かう孤独な魂こそがきっとこの世界の”主役”なんだと思います。

冒頭のCATSの話、刹那的な猫たちの生き方とイザベラの生き方、自分の人生ならどちらを選ぶかと問われたら、自分はチキンなので即決で美味しいご飯を満喫する刹那的な猫の方を選ぶと思います。イザベラの生き方を選ぶ勇気は自分にはとてもない。なんとなく周りの人たちと楽しく、おいしい人生を歩めたらそれでいい。ゴッホのような生き方はとてもできない。

一方で、最近の世の中はあたかも”光”が至高の目的のように偽装して、巧妙なシステムで”闇”を隠そうとしているようにも思えます。そして、そういう虚構のシステムに強烈な違和感を感じる天邪鬼な自分がいます(でもそういうシステムを自分で壊したいわけでは毛頭ないw)。自分はなるべく平穏に美味しく暮らしたいけど、一方でそういう巧妙なシステムの呪縛から抜け出して、あえて闇を求め船出する人々がかっこよく見えてしょうがない。だからこそあえて闇と立ち向かっているかっこいい人たちをこっそりさりげなく応援するような、そういう人たちが虚構のシステムにへこまされないような、そういうロボットとかサービスとか、そういうものの片鱗をいつか創れたら面白いなと思って自分は研究を続けているのかなと最近メタ認知しました。でもなんかこう書くとかっこつけていて感じ悪いな、自分...。(そもそもこの発想がとても”あざとい”)

でもまあ、自分にとってやっぱ一番大事なことは、美味しいご飯と穏やかな他者とのなれ合いなのかなと思います。光に囚われている...。

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