ダウンロード

ダライラマと寅さん

2020年もどうぞよろしくお願いいたします!
どうか,何卒平和な一年になりますように...

先日,女性が後継者になるのであれば,美しい必要があるという発言をダライラマがしたことに失望したと知り合いが怒っていた.そう憤る気持ちも十分に理解できる.ダライラマのような宗教指導者は,多くの人に希望を与えてきたリーダーであり,その発言に多くの人たちが注目しているのだから,職業として”ダライラマ”をやっている以上は,そのイメージを傷つけるような発言はするべきではない.しかし同時に,そもそも20世紀に多く見られた,一人の聖人が君臨し,みなに希望を与える,そんなロールモデル自体が,そろそろ終わりつつあるのではないかなと自分は考えている.

そもそも人間の脳は聖人になれるようにできていない.様々なレイヤーで異なる報酬系がばらばらに作動しており,それらが矛盾しないように社会的に統合された人格を必死に取り繕っているのが我々人間である.プライベートまで聖人という人がいたとしたら,そいつはロボットであると断言する.

従って,聖人が人間のままで存在し続けるためには,プライベートを明かさない守秘性が不可欠である.昔の皇帝なども簾の向こうに鎮座し,素顔を隠すことでその権威を守っていた.聖人が存在し続けるためには,個人を社会的に殺し,人工的に造り上げた権威を身に纏う必要がある.従って超越した聖人が我々を率いるというロールモデルは,マッチョな独裁者を崇拝する全体主義的な思想につながりやすい危険性も内包しているように感じられる.

しかし21世紀の現在,インターネットによって個人情報は瞬時に拡散され,個人の神秘性を維持し続けることが不可能な時代になりつつある.そんな時代に,20世紀の聖人的なロールモデルを組み立てることは,なかなか難しくなってきた気がする.ノーランが監督したバットマン三部作は,このような個人としての聖人像をどのように扱うべきなのかの苦悩を描いた映画であった.このシリーズの最後でバットマンの中の人であるブルースは自らの存在を”殺す”ことで,俗人性を取り払った偶像としてバットマンを切り離し,自らは遠い異国で最愛の人とお茶をしている,という結末がとても印象的であった.聖人を人間がそのまま演じ続けることは不可能なのである.

そんなこんなを考えているときに,このお正月に,両親と「男はつらいよ」の新作映画を観に行った.正直,寅さんについては殆ど観たことが無く,事前に数作品を鑑賞したくらいであった.今回の寅さん映画の新作は,寅さんの甥っ子である満男が主人公であり,色々と生きることに迷いながら,寅さんとの思い出を回想していく,という内容であった.この映画館の客層はシニアが多かったのだが,その大勢が映画を観ながら,スクリーンに映し出される往年の寅さんの姿に,笑い,そして泣いていた.今でも,多くの人の心の中に車寅次郎は”おじさん”として生き続けているのかもしれない.しかし寅さんという人間は,所謂聖人とは程遠い.短気だし,僻みっぽいし,どこまでもだらしない.なぜこのようなダメ男が今でも多くの人たちの心に生き続けているのか?

まず寅さんは,どこまでも自分の内面に正直である.腹が立ったら怒り,悲しいことがあったら泣く.嬉しいことがあったら笑い,心ときめくマドンナがいたらすぐに恋をする.このような寅さんの社会的な繕わなさが,日頃から周囲の目を気にしながら,そろりそろりと生きている人からすると大いなる癒しになるのかもしれない.新作映画でも,かってのマドンナが,寅さんは本当にダメ男よね,でもそのダメさがたまらなく好きだったの,と泣くシーンが非常に印象的であった.

しかしもう一点,自分がもっと重要であるなと考えたのが,寅さんが港としている柴又のおじさんの家の存在である.寅さんの妹のさくらをはじめ,柴又の家の人々は江戸っ子的不器用さをもちながらも,どこまでも懐が深く,優しい.さすらっている寅さんや見知らぬ訪問者が次々と訪ねてきても,なんだかんだとそれを受容し,美味しい料理を振る舞い,家の二階に泊めてあげる.そのメンタリティは寅さんがいなくなった新作の柴又の家にも引き継がれていてほっこりした.寅さんの魅力は,あの柴又の家とセットになって初めてフル稼働するのかもしれない.男はつらいよシリーズの中で,寅さんの前には,次々と魅力的なマドンナが現れるが,極論すると彼女たちは寅さん個人に惹かれているというよりは,柴又の家の二階に寝に来ている(穏やかな空気に包まれに来ている)のではないであろうか?マドンナにとって,寅さんはあくまでも居場所であり,彼女たちの人生の問題の外側に存在する(だからこそ救いになる)ものなのかもしれない.

このような寅さんと柴又の家のありかたは,社会学者のオルデンバーグが提唱するサードプレイスの概念とよく合う.サードプレイスとは下記の要素を満たす,家や職場以外の第三の場所のことを指す.

・中立性
・社会的平等性の担保
・会話が中心に存在する
・利便性がある
・常連の存在
・目立たない
・遊び心がある
・感情の共有

このような場所が存在することにより,人間は日々の暮らしの中に安息を見出し,明日への活力を手に入れることができる.サードプレイスの考え方の核にある発想は,人間中心の考え方である.すなわち,あくまでもサードプレイス自体は脇役であり,物語をつくる主人公はそれを利用する一人一人の人間なのである.これは20世紀のマッチョな聖人のように,高みに君臨し,我々に生きる物語を与えてくれる存在とは対極に位置するものである.

20世紀の聖人は,個人を没個性化させる一方で,生きる目的をコンビニのように与えてくれるとても短期的には優しい存在である.それに対して,寅さん的な存在は,生きる目的や意味はそれを利用する人間自らが自分で探し出さないといけない.すなわち入り口の表面的な優しさとは逆に,恐ろしく厳しい道を人間に強いる残酷な存在であるとも言える.

ダライラマと寅さん,どちらがこれからの時代に必要なのか?世の中が混乱してきたら,マッチョな20世紀的ヒーローがみんなを纏め上げる方が安定的に社会が動くのかもしれない.しかし前述のように,インターネットの誕生により,みんなが共通した英雄を掲げることはもう不可能になりつつある.さらにインターネットで”客観的”な情報が共有された世界において,他人を羨み,自分に絶望し,自信や居場所を無くす人たちも増えているかもしれない.インターネットは確実に世界を進化させ,開放性を大きく上げた一方で,個人が自らの力で”自分”であり続けることを強いる,厳しい時代をつくりだした側面もある.

たからこそ自分はどうしても寅さん型の何か(寄り添いロボット?)に憧れてしまう.なぜならば,その存在が立派じゃないからこそ,周囲の人たちが自己を発揮する"大いなる間"がそこには存在しているからである.寅さんという暖かい存在が内包している残酷さは理解した上で,それでも適切な場所さえ与えたら,どんな人だって”おもろく”なれるチャンスがある,そういう世界観をずっと信じ続けて生きていきたいものである.なかなか大変だけど.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?