見出し画像

5%の孤独

(写真の犬はカフェで働く主人を待つ姿を激写したものです)

研究者という仕事柄、プレゼンテーションをする機会が多いほうだと思います。今まで100回くらい(数は適当だけど)色々なところで話をしてきましたが、やっぱり来てくださった聴衆のみなさんの反応がひどく気になりますよね。例えば自分が単独の講演会とかごくごくたまーに企画していただくのですが、会場に一人も来なかったらどうしよう、期待外れの話をして主催者の人を失望させたらどうしよう、と前日の夜から不安で寝れなかったりします(まあ結局は寝ますが)。あと他人と一緒のシンポジウムやワークショップでも、自分が喋る番になったらみんな席を立ちあがって退席するのではないか、ヒヤヒヤしているところがあります。

それで基本的に自分は早口で慌てながらトークをするので外れることも多いのですが、たまに自分の言いたいことが会場のみなさんにうまく伝わった、みんな興味をもってくれた、と実感できる日もあります。そんなときはとても嬉しくなってホッとします。

一方で、本質的にMな性格もあり会場にとても良く伝わるトークをしたときには何とも言えない絶望感を抱く天邪鬼な自分もいます。基本的に、自分にとって研究とは確立した何かではなく、いつも自分がモワモワ考えていることを試行錯誤で実験に落とした結果だったり、人と議論して何かヒントを得た着想だったり,小説や漫画,映画やゲームから得た感銘だったりと、そういう生活の中で得た小さいパズルのピースをつないで、死ぬときまで(?)に「知りたいことが何かを知る」常に未完成作品だと思っているところがあります。だから全く同じプレゼンをしたことは一度もなくて、必ず話す機会ごとに何かの部分を改変したり、スライドを追加したりしています。

だから「ひでまん先生の言う〇〇、本当に良くわかるよ。完璧にわかるよ。」とかたまーに言われると「はっ!?」という気持ちになって、反響が悪かった時よりもモヤモヤする自分がいる。「僕が自身が分かっていないのに、おまえ(口が悪いw)にわかられてたまるか!!!」、みたいな。あと「もっと何が課題でそれをどう解決しようとしているのか分かるように喋って!!!」、と言われると、「こっちも分かっていないから研究をしているんだ~」、と心の中で逆切れしてしまう心が狭い自分がおります。

・・・と息巻いていたのも昔の話で、最近は日々のご飯を食べていく為に可能な限り分かりやすく喋らなきゃと頑張って工夫したかいもあって、「相変わらず早口だけど大分昔よりプレゼンがましになったな。」と昔から知っている先生に褒めてもらったりして、そういう努力の成果が褒めてもらえるのは純粋に嬉しいですね。

でもそんな生活に追われる毎日でも、自分のトークや論文には最後の防衛線として常にどんなときでも5%くらいは自分でも言語的にわけがわからない部分があるべきだと信じています(お前の話の分からなさは5%どころじゃないとか言われそうだけど)。どんなに究極で95%の部分までは褒めてもらっても、理解してもらっても、それでも絶対に他人には分かってもらえない孤独がせめて5%欲しい。そしてこの5%は澱んた水たまりみたいに濁った留まっている感じではなく、川のように自分の中で流れていて欲しい。自分の話を聞いてくれた人が100%理解して賛同してくれた,もしくは自分の言いたいことのもやもやが型にはまってしまって変化しなくなった、そんな日が来たらそれこそ研究をやめて犬のように暮らしたいと思う今日この頃・・・。 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?