アニマトロニクス

メモに留めなかった時点で結局、誰かに認めて欲しいのだろう。駅のホーム、向こう側の赤青に別れたちょうど真ん中。最初は親が、次に自分が、向き合い綺麗か汚いか、拭えるか拭えないかの分岐点を見据えて目からは涙が出ようとしている。目の前にあるものを悲観しているのではなく、ただ他に見るあてが無いためである。物思いにふけるということだろうか。大学で、予定2時間のガイダンスがものの40分で終わり早々に帰宅をしかけている。新学期初めに残業(昨日気づいたのだが課題は残業といってもおかしくはない)もなければサークルも、委員会もない。誰と話すわけでもなく、元々家で昼食をとると昨日から決めていた、からもんもんと帰るのみであるのだ。

何度も言っては奥底で"いや"と仁王立ちする自分を知っているが、文を書く事に特出した人間でもなければ世のスピーカー全てから輩出される主食であるような音楽を作れる人間では無い。プロットも手法も何も知らない。過去の栄光はあるにしろ、そんなもの誰にとってもどうでもいいのだ。今まで自分のしたいこと、その道には明るく、誰よりも指針が立っていたと思っていたのだが「集大成」「集大成」「集大成」とそこだけ太字になったかのようにアナウンスされるとその瞬間に道ごと陥没し崩壊、ただそこに自分が浮いているだけになる。そしてつい先程40分の間に10回ほどその瞬間があり、グラグラしている。それでもまたこのような愚行を、それでもまたこのような愚考を、重ねて自分から本来見たくもない(怖いもの見たさ、好奇心であると本で学んだ)情報に接触し自傷行為に走っている。

メモに留めるに過ぎない内容をここに記すことは当然、自分を俯瞰して見た時に引いている。画面に向かってこの先もずっと10個のキー盤を画面を見つめて打ち続けているのだ。どう見たって、引く。だがその俯瞰も本当に俯瞰なのか定かでない。

なんでも混同させてものを見ているようで、私に自分の考えというものは芯がない状態で飽和状態になり擦り付けあって気持ちの悪い色で存在している。自分の慕う人間が思想的にダメだと言ったことを私は保存しほかの場で自分の生き方かのように広げてしまう。最近"そういうことをしていたのだな"と気づけたのが幸いだが、その過去の事を思うと今を生きているのに途端に弱くなる。終わったことなど、誰も見向きもしないのが常だが、電子機器にファイル保存機能があるように、私は過去にも生きていて尚且つ周りの人間ともそのファイルを共有している。ということは私が言ったことは勿論終わったことだが生きている間はそのまま持ち越されるということだ。ここで「削除されています」と表示されるか、それすらもなくパソコンが自動的に整理をしているなら救いだが、私の考えでは、1度提示してしまったことは取り消せない。なにが"自分であれ"だ。正解の意味で、正しくそれが好きなのではなく"理解って"いないから分かったフリをしながら掲げているのだろう。途端に消そうかと、忘れようかと思うが、それを消すとまた過去と現在の帳尻が合わなくなってくる気がしてならない。前髪はいくらでも、また横の髪もいくらでも切れるのだが、自分の竹ひごでできていそうな、骨組みといってもやわな思想はどうしても切り捨てることができないままである。

着地点のない話を続けているのは自分が不安定な証拠である。他に当たり散らす場所も環境も、便利な世の中には何故かないのだ。そもそも同じ悩みなどあってたまるかと、悩みまで同じなのは気持ちが悪い。金八先生の授業を受けるべきだ。私は受けたくないが…人は支え合って生きているなんて綺麗事認めない。仕事だけであるそれは。仕事でも理不尽なことがあるから認めたくない。消費者と製造者が支え合ってる可能性もあるが、自然の摂理で生きていくためには消費者であり、製造者でなければならないのだから、人が支え合うということを言うには暴言すぎる。

私には人と同じ悩みなどないだろうという余裕すらある。金八先生同等のキモさ。何を書いてても何を企画しても何を歌っても、根底の伝えたいことが一致しないおかげで悲しくも唯一無二であると共に誰にも響かない矛盾のダブルパンチ。不慮の好成績を得て脳は誤作動を起こし喜ぶしかなくなっている。壊れた機械人形。

そもそも普通でない状況を作り出しているなにかが全て気持ち悪いのだ。他人に個性やら異常やら普通でないを指定され普通とはなにかを説かれる。普通の異常さを説明する行為には頭を抱える。普通が異常なら、異常は普通ではないか。どう見たって、普通じゃないか。私は聞きたいのだ。普通でないのがなにゆえそこまで心地がいいのか。みな、同じ行動を取りたむろしているではないか。意見も、答えも、オリジナリティなど糞にまみれているではないか。普通でないというのは社会から追い出されて当然であり、その現状に価値を感じるいうことだと私は思うのだ。社会から追い出されることに不安を覚えるのに、普通でないのを求めるのはいささか不謹慎ではないだろうか。

地ごくで読んだことなのだが、ただヴァイオリンを弾けるだけでなくそこに"目が見えない"という一般から付けられた"価値"によってその人間は上へ上へと上がっていた。これが、皆の渇望する普通でない、特別だと言うなら、自身が目が見えないという状況を欲しているということになる。乱暴だが、不謹慎では無いだろうか。

閑話休題

不安定な状況を安定させるためにお金を払ってまでカラオケに行こうとはもう思わなくなったし(家でもタイミングが合えば同じぐらいで歌えると気づいたのだ)、愚痴を垂らす友がいるにしても、彼女たちは旅行真っ最中、楽しさや幸せに浸っている人間に伝えるものでもない。もし聞いてもらったとしてその肯定を飲み込みつつ"はい"の咀嚼物の広がる口腔を見せびらかしてできない"いいえ"を吐き出すのはとても簡単である。大学の友人らにしても慰めて欲しい訳では無いから漏らしただけ、吐いただけ相手に毒を盛るのみであり思想間で侮辱罪を犯す可能性が高い。それにやはり、お行儀悪く永遠と食べ吐き出しを繰り返すに過ぎない。だから、卑怯で姑息だがメモに留めず、過去現在と変わらぬ空気にも保存せず、私のように情報に接触してきた、あるいはここまで読んでしまった人に自傷行為であると理不尽にも定義付けをし、そうでなかったのに唐突に攻撃を与えようとしている。また私としては馬鹿の一つ覚えのようにデジタルタトゥーを彫っているのだ。

そろそろ本題だろうか。なにぶん、構成も何も無くただ垂れ流してるだけだからあっちこっちいって勝手に申し訳なくなってくる。今まで、言ってはならないと、そう思っていたし、周りの方はこれから話すことにキョトンとするだろうと思っていたために言えなかったことがある。現に、その悩みと反対の、進化のできる純粋無垢な探究心(正解の反応と言っておこう)を行使している人間を何人も見てきた。

どうしても人の作品を見て喜ぶことが出来ない。自ら前向きに向き合ったことがない。これはどうも昔からで、人のことを褒めた時と言えば、自分の専門外である時ぐらいだ。同じ専門で褒め合うのはそれこそ、なんだか生きた心地がしない。が、必然的にしなければいけない場面もある、大学とはそういうところであり、私の更生施設とも言えるだろう。良い場所である。(今日も早起きしなければいけない時間にガイダンスがあったために、あれはどう考えても更生施設だ。人としての生活を取り戻せる素晴らしい施設だ。)

なぜ、人の作品を自ら前向きに接触しに行くことができないのか。最低なことに元気がなくなるからだ。たとえ不幸に寄り添った作品であってもそんな寄り添いはむしろ発見であるしなんで私はそこに至らなかったのかと元気がなくなるから見たくないのだ。とにかく、元気がなくなる。バカみたいなのだが、本当に元気がなくなる。でも、なんでも芸の肥やしになるという暴力的な正解が脳裏にはあるから、自傷行為をまたしてしまう。結局なんと言おうと見ているのだ、聴いているのだ。

小さい子供がレッスンしている動画が不意に流れてくると気分が悪くなる。あぁ、また被害者がと、起きてすらいない事件を勝手に起こして不適切→非表示→ブロックを繰り返している(なんでこんなにやってるのに何回も出てくるんだ殺し来てるのか)。人は、結局何をしているかではなく、誰がしているかで見ているし、どんな人がではなく、何歳かで見る節がある。それをわかって商売に取り込む策士もいるが、気づいて嫌気がさしている人としては、うわぁ!となる。幼稚園生がショパンを弾いていたらそんなに偉いのか?年寄りがショパンを弾いていたらそんなに感動するのか?誰が弾いたって感動する曲なのに、一般教室に通う普通普通普通の生徒が弾くショパンに価値はないと静かに現実を突きつけられている。あ、私のことでは無い。上記の動画が何個か流れてきて一連のことが起きたからである。年齢なんて関係ない、とかいう癖に、価値を見い出す時にはいっちょ前に年齢を引き合いに出してくるこのキモさ。キモいとしか言えない語彙の少なさに悲しくなってくる。ばーかばーか。

あんまり、声を大にして言うべきでないし、言わないようにしようと思っていたのだが、なんだか自暴自棄なようで。某歌い手さんの不幸関連の曲を、どこぞの歌い手が我が物顔で「あなたの不幸に寄り添えるように」「思いの丈を叫びました」と概要欄でつらつらつらつらつらつらつらつらつら話していたのだが、思わず は?と言ってしまった。(ここで言って起きたいのが、私はファンでもなんでもない、ただのネットサーファーである)引き合いに出すべきか分からないが、たぶんそうだろうと、Threadsでメモしていたのだが、人間だ に近いかなと。その人たちの苦しみは当事者でないと理解できないと思っている。だから、利益欲しさの不幸を使った商売など人の道を外れたなとまで思う。なぜ他人の不幸を我が物顔で、いや、キメ顔で歌えるのだろうか。この意見に対して、一流のアーティストとも言える彼らは、きっと、何も思わないのだろうなと。(2度目だが、歌い手に関しての知識は皆無である。ファンでない)私が許せないのは、自身の不幸を歌った曲を、さも自分のものかのように「最速カバー」「新人」と本来どうでもいいはずの"価値"を付与して汚すのが許せないのだ。一定数、意見としてそういうものが見られた訳では無いが、明らかに"歌ってみた"とやらが少ないのがその証拠だろう。本当は、誰もその領域に踏み込んではいけない。

自分の知らない不幸やら苦しみを無理に作品に組み込むのは、現実に起きている事象をさらに侮辱していると私は思うのだ。人は、不幸じゃないのに、不幸というファッションを欲しがる。不幸であり、欠けている方がステータスが満たされていると思っているのだ。だから、知りもしない病名を、罹ってもいない病気を飾りにし始める。


人から作品が認められるとはどういうことだろうか。講評を沢山貰えるということだろうか。賛成されるということだろうか。賞賛を浴びることだろうか。人間として、それ相応に評価を貰いたいという欲があるのは当たり前であり、当然だ。私だって、貰えたら嬉しいし、自分が他人の作品を見てうがうが苦しんでいる間よりかは辛辣な意見を直接貰う方が気が楽なのだ。

自分がされたいことを人にしなさいと小学校で習ったが、大人の世界ではどうも、自分が与えてばかりで(感想やら講評)自分には何も与えて貰えないのだ。与えてもらっているのだが、見合っていないのだ。失礼になるが、はっきりいって稚拙である。何故、私はそこまでしか見て貰えないのだろうか。そんなに悪いものだったのだろうか。下に見られているからだろうか。あるいは、根底のコンセプトが同じジャンルであったにしても作り手が作品に見合っていないから伝わっていないのだろうか。私が問題なのだろうか。私が作った作品を、誰か芸能人が発表したら評価してもらえるのだろうか。(これはずっとになってる事である。ミニ格付けみたいなもので、アマチュアが作ったものをプロが作ったていで発表したらどこまで通っていくのか実験してみたいとずっと思っている。高一の時、有吉の壁を見ていて、芸人1が言ってスベッたことを芸人2が別の機会に言ってウケていたことがあった。そこから、全部、何を言うかじゃなくて誰が言うかなんだなとしょんぼりした覚えがある。ちっ、ブランドめ。)

これは我儘だと、何度も自分を宥めているのだが、稚拙な意見、講評だと貶す自分も確かにいるのだ。私が、あまりにも人前で私を切り離して人と接するからなのだろうか。受動的であると人は繋がりを無くすのは知っている。だから、評価の場では能動的であるようにしている。それなのに。このザマである。

くっだらない講評というのは、個性があるね、性格が現れてるね、よく思いついたね!!芸術だね!!という何か言っていそうで口を開けてすらいないトンデモコウヒョウズである。誰が嬉しいのだろう、こんな評価を言われて。それとも当回しに、お前には言うことがないということだろうか。いやまさか、教授でもないのに。京都弁にしては雑すぎるし…いや、なんなら講評ですらない、感想だ。それも一言。一言?そう、一言らしい。口も開いてないのにね。

我儘なのか、誰もが納得してくれる愚痴なのか。

どちらにせよ、メモに留めなかった時点で結局、誰かに認めて欲しいのだろう。それは、ここまで違うと言っていた肯定やら、慰めやら含めて、認めて欲しいということなのだろう。いつまでたっても嘘つきである。

高校時代の友達と出かけてこんなことを話した。
大学で友達になる人って同じ趣味で同じことが好きでも高校の時一緒だったら友達になってないかもしれないよね、と。確かにそうかもしれない。大学の友人らにとって私は実は苦手な性格であるかもしれないし、高校のイベントを共に過ごさなかった分、隠れている本来の姿があるのかもしれない(本来の姿とはまた、むず痒い言葉を…うううげげげ)。これはどこの学年でも言えることでは無いだろうか。中学一年生の時の私と、高校一年生の私では、どうも違うだろうし、高校一年生の時の私と、大学一、二年生の私とは絶対的に立ち回りや性格が違うだろうと思う。人間そんな簡単に変わらないことはわかっているのだが、些細な振る舞いや言葉遣いなどは容易に変えられる。中学から高校に上がる時点で私は、もう声の大きい吹奏楽部員の看板を下ろしたし、みんなの前に立ち、リーダーとなることも控えるようにした。コロナのせいとも言えるが、なんとなくそれも違う部分もある。中学から高校に上がる時、怖かったのだ。中学の時、自分の勝手な行動で人を傷つけていたこともあったし、また人前に出る部活をやっている自分という売り出し文句でプラスに物事が進むように言ってしまえばずるく動いたこともあった。当時はそれを良いとしていたが、振り返ると、どうもガキ大将のように見えてしまう。何か悪事を働いていた訳でなく、単に言うと、ほんとに声が大きかったし、言葉も色々とデカかったのだ。それを高校まで持っていって、やっていける自信はなかったし、流石にもう少しお淑やかになりたかったのだ。他人にその中学から高校へ上がる時の変化を思春期だと指摘されるのは気持ちが悪いが、自分で言う分には確かに思春期と言わざるを得ない。中学から高校に上がる時には、知り合いは2人程しかいなかったし、クラスが全員と同じになることもなかった。だから、容易に自分を隠すことだって可能なのだ(隠すだってよクスクス)。唯一吹部時代の子が高二になって同じ高校であることに同じクラスになってから気づき、それは、驚いた。

だから、確実に、今大学で仲良く過ごしていたとしても、根底では全然一致していないかもしれないと思うと、自分が分からなくなる。人によって態度を変えるのはそれこそあまり良くないが、自分を押し付けるのもそれはそれで良くない。寄り添うにしたって、それは共感ではなく右から左への受け流しに過ぎない。

学べば学ぶほど賢くなるのではなく分からなくなる。果てがなく全てを放棄したくなる。多分それは、元の人間がそこまで完成していないから(完璧という意味ではない)許容量を超えた知識は選別不可能なのだろう。これにはこれ、あれにはあれ、としっかり思想を振り分けできる人間になりたいと最近よく思うのだ。そして、勝手に賢いと思われて、勝手に考えがしっかりとしてると思われて、結果を見てガッカリされるのをもう見たくない。それでも懲りずに認めて欲しいと思っているのは矛盾であり怠惰であり我儘である。