皮膚で包んだ生温かい塊

 他者からの評価によって自尊心を消耗しなければならないなんて、そんなことがあっていいのかよ、と思うけれど、世間ではそれがありふれているのが実際のところだ。

 身の回りに就活で疲弊している友人が多くいる。私自身、院試の傷が未だに癒えない。我々は不明瞭な基準の下で見えない誰かと戦わされ、そして負けさせられ、「あなたは不要です」というメッセージを手土産に持たされる。残酷である。塾講師をしていて、入試なんかも嫌だなと思うようになった。内申だの成績だのなんでそんなもので入れる高校が決まってしまうんだろう。その数字にどこまでの意味があり、価値があり、優劣があるんだろう。「勉強をしろ」「いい成績を取れ」と言うべき立場でありながら、本心では「勉強が苦手でもあなたは素敵な人だって知ってるよ」「勉強だけできるだけじゃだめなんだよ」と言えるようになりたいと思っている。

 見ず知らずの他人からベタベタと好きなだけ物差しで測られ、あっけなくペケをつけられる。人の価値とは?あるべき人生とは?つまらない紙切れとつまらない会話で見限られてしまう。こんなものが罷り通っていること自体、恐ろしい。苦しい条件下でも最大の努力をし続けた人間に対して、評価を一切せず切り捨てることの恐ろしさを感じずにはいられない。人は誰しも生きる中で努力をし、挫折をし、成功もし、喜び、泣き、良い人生を送っている。そのひとつひとつに価値がないはずがない。十人十色の深みがある。 にもかかわらず他者からの評価だったり採点だったり、そういうものたちはいつもあたたかな想像力を持ち合わせてはくれない。

人生は終わってくれない。どんなにハンデがあり、どんなに挫折をし、どんなに間違っても、リセットできない。セーブもできない。続くのみである。それまでの傷を全て負ったまま生きる他ない。

 評価は水物だ。失敗もただの結果でしかない。人の優劣なんて、顔を指で摘んでみてどっちの方がよく伸びたか、みたいな、なんとなく選ばれた基準で適当につけられている。人に優劣なんてものはない。ないものを比べられている。骨、臓器、肉などを皮膚で包んだ生温かい塊の優劣なんて所詮山とか海とか宇宙とかからしたら本当に、ない。無意味だ。
 
 実はどうやら人って生きてるだけで良いらしい。どんなに酷く醜く汚点ばかりだろうと、自分が楽しんで生きていることを示せば、身近な周りの人を救う事だけはできる。それくらい気楽になりたい。それくらい戦わずにいたい。そうもいかない。楽しく生きるために、苦しく生きなければいけない。恐ろしい。

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