何か

何かを自慢する人が怖い。でもそれは自慢したいからしているのではないのかもしれない。本人にとってそれは自慢でもなんでもない、ただの生活の一部を切り取って放り投げただけの、なんてことない発言なのかもしれない。それでも、たまにそういう、なんてことない発言にやられる。あの人は頭がいいらしい。あの人はお金に困ってないらしい。あの人は周りに愛されているらしい。

人のしあわせを妬むほど、自分の心が疲弊していくのがわかる。自分には何かが足りない気がする。何かが。それが何なのかはわからない。わかる日は来ない。

しあわせなんてものが、この世にあると思う方がおかしいのかもしれない。みんな苦しんでいる。みんなつらい人生を送っている。しあわせそうに見えるあの人もあの人もあの人も、生活の一部を切り取って話をしていて、切り取られなかった部分に闇は潜んでいるのかもしれない。光がある所には必ず闇もある。みんな何かを失って生きている。自分の闇をどうにかして隠して、取り繕った光を見せあっている。人の光を見ると、自分の闇が濃くなる。闇が濃くなってしまうと、どんどん自分が何をしているのか分からなくなっていく。

なんで生きているんだろう。

生きていると、何かを成し遂げないといけない気がする。何か出来なくては、何か出来るようにならなくては。果たして自分は一体何が出来るんだ?自分に問いかけて、ゆっくり考えて、そして、何も出来ないと気づく。この繰り返しを、繰り返している。

やらなくてはいけないことに、漠然と追われている。半年後には院試、1年後には卒論。決まった未来が私を待っている。絶対に。まだ4年生になっていないので、実感は無いけれど、それでも確実にそれらは迫ってきている。導火線に点けられた火を止めることは出来ない。爆弾が私を睨んでいる。

自分はカウンセラーになりたい、と思っている。それしかやりたいと思えることがないから。そのためには院試に受からなければならない。卒論を書かなければならない。

でも、なんで生きてるかもよく分かっていないこんな無力な人間に、カウンセラーという仕事が勤まるのだろうか。もし仮に、全てが上手くいってカウンセラーになることが出来たとしても、働くことが上手くいかなかったら?死ぬ?それとも、何か別の生き方を見つける?生きる理由もないのに?そもそも、どうしてカウンセラーになりたいんだっけ。どうして院試を受けるんだっけ。どうして卒論を書くんだっけ。自分の根幹に座ってあるべき、生きることへの土台のようなものが、光が、とても弱いから、全てがゆらゆらと歪んで、霞んで、見えなくなっていく。

何かしらのタスクに追われ続け、こなしてはまた増えて、将来の不安と自分の無力感は日に日に増幅していく。この日々は一体どこに向かっていて、何がしたくて、何を生み出して、どんな意味があって……。考えても考えても、自分の人生は惰性に過ぎない。目の前のタスクをこなすことが、どれだけ後の自分に影響を与えるのか、感じることが出来ない。惰性の日々が将来を薄めて、薄めて、生きることが自分を薄めていく作業でしかなくなって、それをただ、悲しんでいる。いや、もはや悲しむことすらしていない。何もしていない。自分が薄まっていく。

自分はカウンセラーになりたいと信じて、思い込んで、大学3年生を終えようとするところまでは頑張れた。しかし、体はボロボロで、心もボロボロで、自分はこんなに弱くて、私が何かを成し遂げるなんて無謀な話なのではないか、私に思い描いた将来は本当にこの先に待っているのかと考えると、かなりそれは、遠い遠い夢まぼろしなのかもしれないと思う。とても苦しい気持ちになる。

何かしなくては。何か、とにかく何かをしなくては。

自分は弱い。得意なこともない。それでも何かをしなくてはならない。自分には何が出来るんだろう。結局何も出来ない。この繰り返しを繰り返している。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?