この人は「大豆田とわ子」を見てない!!!

接している相手に対して表題を思う時がある。
「大豆田とわ子」はもちろん何に置き換えてもいい。

・大豆田とわ子、ちょっと前に見直したんですけど本当に素敵な作品ですよね。
 ※見直して気づいたのは、ずっと役者の方にピントを当てていて情報量を絞っていたりしていたな、と。
  「このシーンでここを見てもらいたい!」みたいなのがガンガン伝わるの、「フォーカス」って感じですよね。

・それはそれとして、
 「私があの作品を見たから覚えたこの感情を、この人は見てないから知らないのでは…?」みたいなことがある。

 「人生において素敵な瞬間にはスケールの大小は関係無い」を形にしてくれた「ソウルフルワールド」だったり、
 「自分をきちんと守るために正当な手順を踏んでいくと本当に疲弊する」を表してくれた「落下の解剖学」だったり、
 「(薬物)中毒の怖さと、自分じゃ変えられないものに付き合っていかなくてはいけない苦しさ」を覚えた「ビューティフルボーイ」だったりする。
 ※大豆田とわ子は表題とリンクしすぎるから割愛
 ※正直一言でまとめたくないくらいどれも素敵な作品、本当に
 ※あとそれ以外にも学んだことはある
  表現したものが私の全てでは無いし、同様にその人の全てでは無い
 
 あともちろんそれ以外の作品でその感情を知っていたり、ご自身の人生で感じたことのある人もいる。
 例として「落下の解剖学」での「正当な手順は疲弊する」の部分は「図書館戦争」に出ていた「正論は面倒臭い」にも通じる話だったりする。

・もちろん大前提、誰が何を見たって、見なかったって、そりゃその人の自由だからなんだっていいんだけど、
 「自分の中で大切な価値観が共有出来ないと思う人と接していると悲しくなってしまう」という時がある。

 私が大事にしているものを、相手が真に理解することはほぼ無いし、逆もまた然り。
 自分がつまらないと思った作品も、誰かにとっては大事な作品かもしれないのは当たり前だし、
 もしそうでなくても作品は否定されるべきではなかったりする。著しく誰かの権利を阻害しない限り。

 チェンソーマンでも「糞映画をこの世から消すのは…」みたいなことが描かれてたし、
 こないだの東京都知事選でも「oh…」と思う人はいたけど、
 誰かに危害を与えない限りそれが出来る権利は守らなければならない。
 多様性は他者許容とのバランスで成り立っている。それは苦しい時もある。

 あと映画は娯楽作品の側面も多いし、自分の人生に活かそうとしなくてもいいものでもある。
 「この人この作品見てるのにこんなことするの?!」とかそれはそれでありうるし、それはそれでいい。

・私にも見てない映画はもちろんあるし、相手に対してそういうことをしてしまった or してしまっているかもしれないのは前提である。
 人間は一面だけではないし、人間は映画ではない。
 ※私は「人間は作品ではある」と思っているが「エンタメ作品」だとは全く思ってない。

 …他者と関わることは苦しいことが多い!!!!!!!

・でも、映画の話を例えで出して、「あのシーンと今似てますよね」みたいな会話が出来た時めっちゃ嬉しいよねー。
 他者と関わるのはそういうふとした時「繋がった」みたいな感覚が好きだから、という側面もあったりする。
 
 苦しさだけではない、楽しさだけでもない。
 大豆田とわ子はその両方をちゃんと描いていた作品だな、と思った。

 めっちゃいい曲。5:13~が特にやばい。
 https://www.youtube.com/watch?v=Js0VPCVRSxI

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