本当の「ありがとう」が言えるまでは
本当の「ありがとう」が言えるまでは
心が伴わなければ、ただの呪文。
わたしは、幼い頃に新興宗教の般若心経もどきの薄気味悪い呪文を無理矢理覚えさせられ、たくさん唱えてきました。
無理矢理、「ありがとう」という感謝の言葉だって言わされました。
結果、訪れたのは家庭崩壊と家族との絶縁です。
「感謝をしましょう」
「毎日ありがとうといいましょう」 と聞くと、
その言葉がとても薄っぺらく感じてしまうのです。
それって、人に言われていう言葉なのですかと。
誰かが言ったことを間に受けて、マニュアルのように復唱する。
誰かが言ったからと盲目になって、般若心経の意味もわからずに写経する。
誰かが言ったからと言って、呪文のように唱え続ける。
それって綺麗事にしか感じないし、 自分の意思で言っていない時点で、正直、気持ち悪くて吐き気さえも覚えてしまいます。
綺麗な言葉を言い続けることで、状況によっては心地よく変化を感じるかもしれません。
暴言よりも素直な表現の方が、洗練されて心に反映されていくという事は事実としてあります。
言霊というものも、確かにあるとは思います。
「嘘が真」となっていくように、違和感がありながらも心がけて言葉にして行動していれば変わることは、たしかに在ります。
それは「変わりたい」と在り方を変えようとする努力が中身に伴うからです。 心が篭っていなければただの呪文でしかありません。
綺麗な言葉を「綺麗事」で終わらすのか。
生き様を乗せて、心を込めて意味を為す「言葉」にしていくのか。
それは、「言葉」でさえも生きている人が使う道具です。
生きている人間が、その「言葉」をどう捉えて発していくのかが1番肝心なのではないでしょうか。
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