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長尾和宏の死の授業
あまりこういう本は読まないんだけど、授業中に先生が貸し出してくれたから読んでみた。
字が大きくて小一時間くらいで読めるもの。
私はやっぱり小児の臨床がやりたいって思ってた、ずっと。だってこれからが期待出来るから。
訓練してもしなくても成長していく姿が嬉しいから。
反対に、終末期なんか、自分のやれることなんてほとんど無いんだろうし、あと数年で死んでしまうことがわかっている現場にはいたくないと思っていた。明るい未来が見えないのになんのために介入するのか?とか思ってたのね。
私は生まれた時からばあちゃんとひいばあちゃんと一緒に暮らしてて、ひいばあちゃんが認知症だったのに私は優しくしてあげられなかったのね。
いつも私の名前間違えるし、耳は遠いし、お金の計算はできないし、学校から帰ってきたら転んじゃって玄関に座りっぱなしだったり。
そんなひいばあちゃんのこと見て、なんとなく一線を引いていたし、どうせ何言っても通じないんだろうなって思ってた。でも、なぜかよくこっちを見て何かを言いたそうにしていたのは覚えてる。失語もあっただろうし、本当はコミュニケーションとりたかったんだろうな。
ひいばあちゃんだって1人の人間だったわけで。認知症になる前のひいばあちゃんを知らなかったから気付けなかったこと。
生き方を考えるのと同じくらい、死に方を考えてもよいのではないか、というのはもっともだと思う。ちゃんと考えないと、ずるずると周りにも負担がかかるかもしれない。
尊厳死、安楽死、平穏死
自殺と自死
ことばの区別がついていなかった。
表記の違いでしょ?と思うこともあった。
“障害者”を“障がい者”と書くことなんてとくに変わりないと思ってたけど、ちがうんだね。
人は、ADLに比べたらコミュニケーションを置き去りにすることは多いと思う。
1人でトイレに行けるようになったら退院しますという人はいるけど、一言話せるようになったら退院しますという人はまずいない。
でも、最後まで人らしく生きていけるのはコミュニケーションの力なんじゃないかな。終末期の話をきいて尚更感じた。
自分の死期なんてまだ考えたことないけど、いずれくるもの。少しずつ、自分のこともそうだけど親のことも言い合える関係になれればな。
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