日常における我が方程式

日常が充実さや幸せの感じかたなんて人それぞれのであり、他人の指図で行動する意味はない。
今自分のしていることに幸福感、有意義さを見いだせていればそれで充分だ。そこで、この主張をより確かなものとするため、ある一例と比較対照し議論をしたのちに、結論としての方程式をだしていきたい。
まず、その一例とは「恋愛」だ。人は誰しも理想的な相手に淡い恋心を抱き、成就してほしいと願望抱くもの。しかし、理想と現実が違うのは周知の事実。現実はその人の勇気と行動力がない限りその夢は実現し得ないものだし、また仮にその恋が実ったとしても今後うまくお付きあいしていけるかわからない状況に常に立たされることになる。
こういった先行き不安定で運と時間と体力を削られるリスクと、脳内で描く淡く理想的な甘酸っぱい妄想が実現されるメリットを比較検討し、結果運命の相手と結ばれるために東奔西走するか。答は、(現時点では)NOだと断言したい。
自分は、彼女がほしいほしくない以前に、そういうトピックにそもそも関心があまりない。なぜなら、今の自分の理念から基づく日常に有意義さ、幸福感を見いだしているからだ。いや、見いだそうと努力している。絵を描くこと、アニメをみること、好きなものの話をすること。歌うこと。肉体の鍛練。これらで充分充実していると言えると誇りをもてる。I’m proud of my life!
カップルになりたいとばかり豪語するやつは自分の中で何かが足りない、不満や焦りから動いてる連中であるに違いない。そんなコンプレックスの塊である彼らを見ていると情けなくなる。それでは逆に自分達の日常をつまらなくさせているのが何故わからない。自分ならば、そんなことで嘆く暇があるなら何か好きなことをするために思いを巡らせる。ただし自分が今誇りをもって打ち込んでいることがあるのが前提の話だ。
何が言いたいか。つまり、要は生産性の問題なのだ。自分は今、何かを生み出しているか。ものでなくとも、自分の中のスキルでも、なんでもいい。とにかく周囲に誇れる何かを自分はしているか。本来物事の価値基準は、そこから派生していくもののはずだ。失ったものを埋めていくのではなく、新たに創造し続けていく信念をもつ。その信念をみつけることで、悠々たる心で余暇に浸れる。不安も焦りも消えていくだろう。人生何が正しいかなんてわからないが、信念があればいいのだ。
と、ここまでの一連の議論の結果を偏見かつ自己擁護的な方程式で締めくくりたい
日常に対しての自分の信念=恋愛(メリット-リスク)<確実的な有益性、幸福+生産性から導かれる誇り
こうして、今の自分の確固たる人格が形成された。
ここまでいきつくのに大分遠回りをしてしまった。不器用な人間ほどこんな単純なことすら見えないなんて事態がよくあるものなのだ。だから、この方程式を忘れぬよう、一日を精一杯謳歌していきたい。