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火垂るの墓の感想

高畑勲の火垂るの墓がなんかどのサイトでも見れなくてTSUTAYAで借りて見ました。
高橋勲がこれは単純な反戦映画とかそういうのじゃないとか言ってたなーとか思って見たのですが確かにそうだなーと思いました。
まず清太と節子のキャラクターデザインが夏という設定なのに妙に青白くて骸骨みたいで表情も微妙に乏しくやけに黒目が大きく縦長であっさりデザインされているのでカットによっては本当に骸骨のように見えてこれは生きた人の話じゃないんだなと思いました。なんか白目があまり描かれてなくてハイライトのない大きい黒目が少ない描線で描かれた青白い顔なので骸骨をイメージさせるように顔のデザインをしたのかなーと思いました。
服装も戦時中だからか軍服か白いタンクトップで節子も白い上着を着ててなんか死人っぽいです。お葬式の時に制服や軍服や白い服を死者に着せるので服装もなんか死人感があります。
あと夏なのに全然日焼けとかしてなくて青白いのも不気味な感じだなと思いました。結構象徴的に何回も出てくるサクマドロップの缶も結局骨を入れるのに使っていたしこれって骨壷の比喩だよね??と思いました。途中でそれはドロップちゃうってゆって節子がおはじきを食べているシーンがありますがドロップのカン=骨壷だとしたら骨を食べるという暗喩なのかなと思いました。
投げ捨てられたドロップのカンから清太と節子がとなんか蛍?の光がでてきて物語が始まるのですがタイトルも蛍ではなく火垂るだし蛍となんかかけてるんだろうなと思いました。
あとシナリオも私が直前にはだしのゲンを読んだせいかわかんないんですが清太って生きようと思えばいくらでも生きる道あったよなと思いました。なんかはだしのゲンでも妹を栄養失調で亡くしていいたり親戚の家から追い出されたりしているのでなんとなくかぶって思い出すのもあるのかも知れないです。清太もゲンも妹を栄養失調で死なせてやっと食べ物を持ってきたときは遅くて妹が死んでいたのは同じだし親戚の家を追い出されるのも同じなのになんか清太って生きようと思えば生きられた気がしたのが清太もゲンも親戚のおばさんに嫌味を言われていますがゲンはここを出て行ったら生きられんから理不尽でも我慢するんよってお母ちゃんに言われて親戚の家の子供にいじめられたり嫌味を言われても我慢していて、母ちゃんが米を盗んだとか濡衣を着せられても生きるためになんとか我慢してたけど我慢できなくなって出て行って、でもムカつくからそのババアをくそつぼに落としたり嫌がらせをした子供に馬糞を食わせてから出ていくと行った感じでゲンの場合嫌がらせの理由も自分の息子が戦争で死んだのにゲンのお母ちゃんの息子が生きててムカつくっていう理不尽な感じだし清太がおばさんに小言を言われていた理由は清太が働かないからで清太は普通におばさんの手伝いとかしてたら良好な関係を築けてそうだしどうしても生きたかったらゲンのようにそうしてると思うので違和感がありました。
清太は生きようと思えば生きる手段はあったようなシナリオなのと骸骨のように描かれていることからこれは自ら死に向かって行く人の話と敗戦より死に向かっていく戦時中の日本をダブらせて描いている話かなと思いました。
焼夷弾が落ちてくるシーンで焼夷弾の弾と蛍の光が同じように描かれていたり、特攻隊の飛行機を見るシーンが蛍のように綺麗だったりしていたからです。
また二人が家を出て防空壕に住み始めてから防空壕の内側から二人を描くカットが増えました。防空壕の入り口が明るくて内側が暗いので縦長に風景が切り取られているように見えるところと防空壕の入り口の木の形とかが葬式の遺影の額縁のように見えるのでこの映画自体がこの二人の遺影だと表現したいのかなと思いました。防空壕の入り口も二つあるので二つの遺影を表したいのかなと思いました。
また防空壕で捕まえてきた蛍を放つシーンでは唐突に軍艦が出てくるところから一瞬の魂の煌めきに魅入っているように見えました。
そしてその蛍の光に魅入っている二人と軍艦に日の丸を降る人たちをだぶらせてこのシーンで描くことで蛍=戦争で死んだ人なのかな?って思いました。だから火垂るなのかなーって。それで次の朝節子が大量の蛍の死骸を埋めているところを見て清太が泣くシーンとかは蛍だけでなく死んだ人への追憶の意味があるのかなと思いました。
なんか戦争中の日本が徐々に諸外国から孤立していってそれでもなお日本の勝利を信じる清太や周りの人に死ぬとわかっていながら死にむかわざるを得ない人を蛍に例えてるのかなと思いました。
節子が死ぬ直前に石を二つ転がしていたのは三途の川の石積みを表してるのかな?とかスイカを食べさせるのもお葬式の末期の水を飲ませるやり方に似ててなんか節子ってどうしようもなく死んだっていうより清太が死なせたイメージがあります。
そのあと清太はすごい無表情で妹の死体を抱いているのですがその後幽霊みたいな節子が防空壕の前に現れて消えたりしてたあと節子の死体を畳の箱に入れて火をつけるシーンも清太が骸骨みたいな無表情でそのあとに無数の蛍が舞っているのも蛍の光=魂なのかな?と思いました。またこの世のものではない清太と節子は赤く描かれるので死に向かって燃えている魂?が描きたかったのかなとか冒頭のシーンとラストシーンが赤くなってなんかループしてるみたいに見てることからもこの映画は現実ではなくて死んだ清太が思い出してる死ぬ前の光景なのかな?と思いました。これでこの映画は死に向かっていく日本と個人のダブルイメージとそれを蛍の光のようになぜか美しいと感じでしまう私たちの暗い生死に関する何かを描きたい作品なんだろうなと思い、この作品が言われているような反戦映画ではなく色々なテーマを包括していることを考えると単に表面上のテーマや取り上げられている事象を持ち出してポリコレ的にこの作品が正しい正しくないで鑑賞する姿勢は作品の鑑賞の視点としてあまりに貧しく作者に対して失礼な気がします。
その作品が昔の価値観に沿って描かれた結果今の時代の価値観と合わないとしたとしても作品が伝えたいことはその時代の価値観だけではなくアニメーションならアニメの作画や動き全体に、映画作品なら演技やプロットや構成や撮り方や描写によってその時代の価値観以外の多くのものが描かれていると思います。その時代の価値観がいまと違うから価値がないとする見方はそんな見方しかできないなら別に映画みなくてよくない?映画や美術作品って価値観を押し付けるものではないから前提がおかしくない?って思いました。

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