アンモナイトの目覚め
小学生のころ、先生に連れられて化石を掘りに行ったことがある。
福岡は津屋崎。今でこそ海水浴オンリーだが、往時は泳げ、かつ掘れるの海岸であった。
化石といってもせいぜい貝の欠片。アンモナイトなんてデカいものじゃない。
少しの段差を観察し掘り進み、メノーを拾い・・・子ども時分の楽しい思い出の一つである。
今日、近所のミニシアターで『アンモナイト』を観た。邦題“アンモナイトの目覚め〝。
※当然ながら、以下、ほとんどネタバレです。
1840年代。英国南西部の海辺の町、ライム・レジス。メアリー(ケイト・ウィンスレット)は老母と二人、観光客向けの土産物屋を営み暮らしておる。主な売り物は海岸で掘った化石。
母はメアリー含め子を10人産んだが8人死亡。爾来、〝感情を失って〝いる。寒風吹き荒ぶ海辺の家。母娘ふたりの貧しい暮らし。
ライムはしかし、観光地でもある。貴族や金持ちの中産階級が訪れ、彼ら用のホテルもある。
ある日、ロンドンから来た観光客・若い夫婦がメアリーの店を訪う。夫はロデリック(ジェームズ・マッカードル)、妻はシャーロット(シアーシャ・ローナン)。ロデリックは化石収集が趣味。
シャーロットは鬱を患い、保養に来たものである。黒い衣装に身を包み、顔は蒼い。外出を厭う。
ロデリックはメアリーに「採掘に同行させてもらえないか。ギャラは払うし店の化石も買う」と頼む。メアリーは渋々彼を海岸につれて行く。
実は彼、鬱々たる妻シャーロットに嫌気がさしていた。メアリーにさらに頼んだのは
「妻の面倒を見てほしい」
といふこと。
寡黙・狷介たるメアリーは断然。断るが、ギャラを上乗せすると言うし母親は同意するしで引き受ける。
シャーロットとメアリーは海岸へ。互いに一言も口をきかない。用意したパンにシャーロットは口もつけない。離れて座る。
メアリーは言う。「頼まれたからあなたを連れてはきたが、本当は迷惑この上ないのである」と。「仕事の邪魔だから、せいぜい泳げば?」と。
シャーロット、泳ぐ。そして風邪をひき、高熱を発する。
ロデリックはさっさとロンドンに帰っている。ホテル住まいじゃ看病する人もいないし、医者(アレック・セカレアヌ)は24時間看護が必要と述べる。やむなくメアリーはシャーロットを家に引き取る。
母親もメアリーも憤懣やる方ないが、事ここに至っては仕方がない。裕福な教会夫人(フィオナ・ショウ)に軟膏を分けてもらうなどしてシャーロットを看病す。教会夫人はやたらメアリーに「家に入れ、寄っていけ」と言う。←これで既にお察し
じきにシャーロットは快復。医者は「あなたの看護は完璧だ」とメアリーを称賛す。シャーロットの顔色も明るく、ライトブルーのドレスを着て
「私を海に連れてって」
そうメアリーに頼む。シャーロットは見違えるようである。
医者はある日、メアリーをホームパーティーに誘う。今晩音楽会をやるからと。招待状の宛名はメアリーさん(のみ)御中。メアリーは、シャーロットも一緒ならと答える。
夜。ドレスアップして医者宅へ。客は皆、上流の人々。メアリーだけ貧しく気後れするが、
要は、こういうことなのである。※親しげにシャーロットに話しかけているのは教会夫人。
メアリー、覚醒す。
翌朝の海岸。化石掘り掘りする最中、シャーロットはでっかい石を見つける。あれ化石じゃね?
メアリーは、あんなもん運べるかと呆れるが、廃船を壊して石乗っけ、ふたりで運搬。帰宅し調べてみたら、イクチオサウルス(魚竜)の頭部だった。
メアリーとシャーロット、喜ぶ。そしてデキちゃう。
フランシス・リー監督は『ゴッズ・オウン・カントリー』で、
ヨークシャーの風景と男同士の恋愛を撮った。『アンモナイト』は女同士で、監督自身もちろんゲイである。
が、ゲイであろうが無かろうが、こと本作はヒューマンすなわち「人間」の映画である。
それはケイト・ウィンスレットの体躯、そしてシアーシャ・ローナンの佇まい。両者の対比に明らか。
前者は、はあ、ご存知『タイタニック』のヒロイン。あれから数十年、横幅肩幅背中が広くなり、まごうことなき中年女性。いっぽうシアーシャ・ローナンは、か細く儚げ。
外見上の対比はVarietyすなわち人の〝さまざま〝を表すが、(それぞれの事情や階級含めて)全く異なるふたりが、愛しあうようになっていくという。
あれっ、摩訶不思議。しかしその顛末はあくまでも徐々に徐々に。
狷介なメアリーには笑顔がない。貧しい母親だけとの暮らし。そこへ闖入してきたのは貴族のシャーロット。だが看病するうちに、最初は義務感というか人倫だったが、同情から愛へと転化してゆく。
シャーロットも、鬱だったから笑顔はなかった。黒い衣装で真っ青な顔色だったのが、本復後、メアリーの肩に手を置く。そして微笑む。
黒からライトブルーへ。そしてオフホワイトへ。衣装の変化やさりげない所作で心象を表す。
映像芸術に台詞はあって良いけど無くても良い。小説などと異なり、それは映像だからだ。
台詞回しにしても著しく抑制的。寒々としたライムの風景・映画のトーンからそれは当然ではあるけれど、きのう新旧の時代劇を見ていたら。
今のそれは人にものを言うとき、「前に」言う。いっぽう往時のものは「いったん下降し腹に落ちて、下で」言う。
運動選手の基本は下半身。役者も同様で、怒りであろうが異議申し立てであろうが、はたまた疑問だろうが、前に向かって台詞を吐くのは人間をわかっていない。
※例えば人は、悲しい時に泣くのではない。あまりに悲しい時は、むしろ笑うのである。怒る時は往々にして、相手じゃなく「下に ー 地面あるいは己に」怒る。
その点、例えば『八重の桜』における綾瀬はるかなど全然わかっていないのだが・・・
話が逸れました。ケイト・ウィンスレットもシアーシャ・ローナンも、人間嫌いになっちまった母親役のジェマ・ジョーンズ(登場場面は少ないが本作では彼女がイチオシ)も、めちゃくちゃ上手い。「人間」を表しておる。
ただ、自分は観賞後「これは難しい映画だ」とひとりごちた。内容がではない。終わり方がだ。
夫ロデリックはシャーロット本復の報を聞いたものか、手紙を出す。「そろそろロンドンに帰ってこいよ」と。この手紙を受け取ったジェマ・ジョーンズはしばしそれを隠し ー 映画ではぼやかしてあるが、母親もまたシャーロットを憎からず思い始めていたのがわかる ー 、だが結局シャーロットは夫の元に帰る。
馬車がしつらわれる。シャーロットはその窓越しに、メアリーを。この表情・・・
メアリーは少しだけ馬車を追おうとするも踵を返し、石の道を帰る。※
帰宅すると母親は、我が子同然に大切にしていたウサギや鹿の小さな置物を磨いている。「自分で磨かなきゃ」と。
シャーロット在宅時には彼女が磨いてくれていたのだ。当時は「触るな!」とか言ってたくせに。
母、咳をしたらハンケチに血。母娘の行く末はメアリーの後ろ姿※でわかる。
ここまでをAとする。
しばらく経って、シャーロットからメアリーに手紙が届く。メアリーは差し出し人を見て、直ちに手紙にキスをする。待ちかねた、恋人からの手紙。
メアリー、誘いに応じてロンドンへ上京す。メイドから「裏口へ回れ」と言わるるも、メアリーは正式に、貴族夫人のゲストである。
シャーロットは歓待。豪邸自宅にメアリーのための部屋を用意。「一緒に住もう」。
「いや、それは違うでしょう」とメアリー。なんなら私を嵌めたの? 籠の鳥に?
シャーロットは「そんなつもりじゃない」と言い募るもメアリーは、直ちに退出。大英博物館に化石を見に行く。
まだ11歳のころメアリーが発掘したイクチオサウルスの全身化石が、ガラスケースに展示してある。ぼんやりと眺めるメアリー。
ふと顔を上げると、ケース越しにシャーロットが立っている。その顔は怨みに満ちている。
映画はここで終わる。←これをBとする
このエンディングなら、あとはお察し。メアリーは、貴族たるシャーロットに手酷い仕返しを受けるだろう。
だが本作の願目はそんなことじゃない。ふとした出逢いでお互いに、己自身が心を開いていく物語。
なればAで終えた方が良かったのではないか。
自分は必ずしもハッピーエンディングを好まない。むしろデッドエンドのほうが好きである。
しかしそれでもこのBエンディングは、『アンモナイト』の本質からどうしてもズレてしまう。
監督はここで、〝物語〝に酔ってしまったのではなかろうか。筋というか物語に。
ことほど左様にエンディングは難しい。従前書いた『ミナリ』の終わり方に疑義を俺は呈したが、あちらは物語を続けるべきであった。なんでもアカデミー賞取ったんだって? あり得ねー
いっぽう『アンモナイト』は物語・筋が本願ではない。ヒューマンネイチャー(人間)が主役だ。極論するならスジなどどうでも良いのである。
Aを取るかBを取るか。それは観客それぞれの判断かも知れないが・・・
モデルとなったメアリー・アニングは実在の学者。幼少時にイクチオサウルスの全身化石を大発見するも以後無視され、貧窮に次ぐ貧窮生活。
今でこそ大学者との評価が定まったようだが、その顛末はさりげない台詞に表れている。メアリーの店に富裕な客がやってきて、ある化石を手に値段交渉す。「22ドルでどないだ?」
メアリーは、そんな安い価格じゃお話にならないと。そこへ二階からシャーロット登場。
「化石の値打ちは発掘だけじゃありません。発掘に偏りすぎているが、彼女(メアリー)の労働対価は、確認分析・掘った後にこそあります」「そして化石とは、過去のみならず現在、未来をも表すものなのです」
映画ドットコムのカスタマーレビューには、淡々としすぎて物足りないといふ向きも。が、俺は『ミナリ』以上に観るべき映画だと思う。
それは、今で言うLGBTQを表したものだから、ではない。自称日本浪漫派たる自分は、ー 作品が社会問題と関わっていてももちろん良いけれど ー 社会問題との関わりは、作品評価の上でマストではない。芸術は芸術自体で評価すべきものである。そう考える。
これは、かの愛知トリエンナーレにおける『表現の不自由展』も同じこと。つまり、芸術至上主義的だが必ずしも芸術至上主義ではなく、がしかし芸術は芸術自体で存在し得るという。
小林秀雄いわく「自然は芸術を模倣する」。芸術が自然を模倣するのではなく逆に、自然のほうこそ芸術を模倣するのだ。そして人間もまた、自然である。
たまたまメアリーとシャーロット、そして教会夫人、もしかしたら母親も同性愛者かも知らんが、そんなことは問題ではない。
『アンモナイトの目覚め』は、兎にも角にも人間を描いた映画である。
◆アンモナイト音楽いうたら、俺はこれしか知りません。
サディスティック・ミカバンド。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?