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大人と子どもの違いって何だろう

今日もオフィスでぼろぼろ涙を流している。

おおよそ会社にふさわしくない態度でデスクに座っている女が、私だ。

ここのところ、自分のひどく子どもな部分に悩まされている。具体的に言えば、すぐに感情的になってしまい、涙が出てしまうこと。

私はもう10年前に二十歳を通り越した。働いて経済的な自立もしている。十分に大人と言えるだろう。しかも私は風貌のせいか、大人っぽいという第一印象まであるようだ。でも、会社という「大人」しか集まってはいけない場で、叱られる度に、自分の仕事の説明を求められる度に、しょっちゅう子どものように泣いたり拗ねたりしている子どもである。「大人」と「子ども」のはざまで揺れ動いている私がここにある。でも、そもそも「大人」と「子ども」の違いは何なんだろうか。

感情がコントロールできない自分に比べて、どんなことが起きても感情に波風立てず落ち着いて状況に対処している他人を見ると「大人だなあ」と思う。「大人」とは「自分の機嫌に責任を持つ存在」なのではないか。

機嫌を保つには、結構な努力が必要だ。寝食に困らないよう経済力を持ちながら、人との摩擦によって互いの気分を損ねないよう上手く関係性を保ち、社会からの批判を受けないように「まっとう」に生きる。それでも機嫌を損ねそうな出来事が起きてしまったら、自分の中で処理する。人に当たってはならない。

一方、子どもは誰かに機嫌をとってもらうことを許された存在だ。オムツが濡れれば泣き、暑ければ泣き寒ければ泣く。眠ければ泣き、寂しくなっても泣く。そんな時周囲の大人は、共感してくれたり、たしなめたり感情をケアしてくれる。時には怒ることもあるだろうけれど、大人が手当をしてくれると信頼しているから子どもは感情を表に出せるのだろう。

そうであれば、私が会社で泣いているという事実は周りの人を信頼している証拠だ、ということも否定できない。泣いても今のところクビにはなっていないし、私が落ち着くまで放っておいてくれるのも知っている。同僚や上司、斜め上の上司までフォローしてくれることもある。ありがたいことだ。

「涙が武器になる」というほど知的で色っぽいものでは残念ながらないけれど、私が泣くことで、真っ直ぐに嘘なく体当たりで向き合っているということだけは周囲に伝わっているようにも感じる。上っ面だけの人との関わりに疲れていたり、さみしさを感じている人にとって、真正面からぶつかっているように見える「泣く」という行為が響くこともあるのかもしれない。懸命さが伝わるというメリットを、知らず知らずのうちに享受している。

また、自分自身のバロメータになっているということもある。涙も出ないときはたいてい気持ちがひねくれていたり、あるいは、感受性に膜が張ったように鈍さのなかにいたりする。真っ直ぐでいられている証として、感情が揺さぶられた時に涙がでてくるのかもしれない。

それでも、「大人なんだから、自分の機嫌くらい自分で取れ」というのは至極まっとうな主張だ。押し黙ったりふさぎ込んだ態度をとるなど、後ろに引くことも「パッシブアグレッシブ」と言われる他者への攻撃への一つの形らしい。そんな態度を他人からぶつけられた日には、私だって嫌な気持ちになる。何の解決にもならないし。誠実に考えることや説明することを放棄されていると感じる。そうはなりたくない。でも自分はそんな態度をとって、なりたくない自分になっている。

頑張らなくては、ちゃんとしなくてはと思うほど涙が出る。

泣いたからって、許されたり状況が良くなったりするとは全く思っていないのに。

理由は、ストレスへの防御反応なのか、簡単に泣けてしまうほど熱く本気で働いているからなのか、どうせ単なる労働力なのだからいっそ感情をぶつけたって構わないだろうという投げやりな気持ちなのか。おそらくどれも正解だけど、これだけでは足りない。

芯にある気持ちは「特別な存在として扱ってほしい」という承認欲求なのだと思う。

認められないことへの強烈な悔しさ、悲しさ、怖さ。

こっちを見てよ、大事にされたいよ。

こんなに頑張ったのだから、認めてよ。

本当はダメなまんまでも、認めてほしいよ。

会社という場所は労働力を提供している場所である。私個人の嬉しいとか悲しいとかいう感情は企業活動にとってどうでもいいことだし、あの場で私は替えの利く存在だし、そうでなくてはならない。

だから、プライベートな家族や恋人や友人がその承認を得る拠り所になる場合が多いのだろう。私も過去の彼氏の前でよく泣いていた。私のことを放っておかないとわかっている人の前で泣いて、幼稚な承認欲求、子どもの部分をあやしてもらいたいのかもしれない。今そうやって手放しにぶつけられる人がいないのも、子どもの部分が暴れ出す要因の一つだと思う。たくさん愛情を注いでくれた母や、たくさんの時間を共有してきた友人たちのことは信頼しているし大好きだけれど、大好きが故にこんなぐちゃぐちゃした感情をぶつける相手にはしたくない。

とある講演の中で紫原さんが言っていた言葉にハッとしたことがある。

「頑張れない自分が好きになれない」と言う趣旨の悩み相談に対する返答だったと思う。

「もし自分が自分の子どもだったら、頑張ってるとか頑張ってないとか関係なく存在を認めているはず。頑張ったかどうかで評価する対象ではない」と。

自分を振り返ってみる。自分の中の子どもの自分はどうか?

毎日「これじゃダメ」「頑張っていなくちゃダメだ」と、自分という親から酷い言葉を浴びせられているんじゃないか。私は、自分のなかの子どもをネグレクトして、自分のなかの子どもをあやしてくれるひとを探し回ることだけに執心しているようだ。

たぶん、「大人」は子どもの部分が無いのではなくて、自分の中の子どもを自分で育てられる人なのだろう。でもそれがうまくできないから苦労している。みんなどうやってそんなの覚えてきたの?

もしかしたら多くの大人が、自分の子どもを育てることで、自分のなかの子どもの部分を育てなおす機会を得て、より大人へなっていくのかもしれない。子どものいない独身の私が自分の中の子どもをあやし、育てる術を身につけるにはどうしたらいいんだろうか。

私に足りないのは、この世界に自分は「ただ居て良い」という存在への信頼感かもしれない、とおぼろげには思うのだけれど。

自分で自分を育てる育児奮闘記は、まだまだ終わりそうにない。


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この記事は#もぐら会で紫原明子さんにお題をいただき、アドバイスをもらって書いたものです。


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