「正欲」朝井リョウ著 ざっくばらんに考えたことを乱列させてみた(やってみた動画的なそれ)

多数派が正しいわけでもないし少数派が正しいわけでもない。何が正しいかなんて自分自身しか知り得ないことだしそれを真に理解することはできない。けど繋がりを持つというのは、理解はできないけれど他者はこう思っていて、自分はそう思わないけどそういう考えがあることを知るということ。だから知ることから逃げてはいけないし、自分は関係ないと塞ぎ込むことも残念ながら許されない。それは不安心ゆえなのか?いや、マイノリティだと思うこと自体は悪ではないが武器にもならない。翻ってマジョリティであることは武器になりうるのか?それも違う。戦いでは本来無い。繋がりたいというのは理解してもらいたいということとイコールではないし、似ている言葉でもない。理解することはできない。いや、私が話すのは理解なのか共感なのか。共感はできないけど理解はできる、はある。言葉の齟齬に囚われ始めている。
結論私はこの小説を理解はできなかった。それは納得できなかったというわけではない。面白かったし読了感はスッキリしないがたくさんのことを考えるきっかけとなった。やっぱり私が抱いていた「多様性の沼は深い」という意識は間違ってなかった。多様性は安易に出して良い言葉じゃない。まるで多様性を理解することが正義だなどと謳われる中、私はなんと動物的で都合のいい話だろうと感じていた。都合が良すぎる。今までは型にハマらない他者は排除してきたくせに。声が大きいから容認せざるを得なくなった。そしてそれを否定するものは悪であると言わんばかりに大きな大きな拳を振り上げる。それは果たして「多様性」なのか?
だから「多様性」を安易に口にしてはいけないのだ。自らの首を絞める。なら言わないほうがいいだろう。実際、協調性を求めている社会の中で多様性は存在し得ないのだ。共生を求めているという前提だが。
何を言っているんだ?と自分でもわからなくなっているが、思ったことを口に出さなければ気が済まなそうなので続ける。テーマは恐らく多様性と協調性としておこうか。異常は誰が決めた異常なのか。昔一夫多妻は普通で、むしろ1人の女性のみを愛している男性は不思議がられた(というよりむしろ異常者?)という。たかだか1000年も前の話。たった1000年で真逆のことを言っているわけだから人間は滑稽である。不倫だと主張してお金まで得てしまうわけだから本当に面白い。戦争だって、勝った戦いはこうしたから勝てたとか、それを率いた素晴らしき指導者なんつって崇めるが、負けた戦いはこんな理由があったから戦ったんだ、仕方がなかったんだと正当化する。逆の立場に立てばまた同じことが起こる。なんと滑稽だろう。清少納言がしきりにをかしと言っていたことにひどく共感する。をかし。
甚だ話が脱線しているので戻すとしよう。多様性と協調性について、だっけ?いや「正欲」についてだった。
だから正しいとは人によって違うのだ。ひたすらに最後の「正欲」のセックスのシーンは読んでいるには辛いが読了後納得がいったということについて右に出るものはいない。これがぶつかり合うということなのか、と。ディスカッションとは本来こうあるべきではないかと思う。正そうとか異常だと除け者にするのではなく理解はできずともただ知っているというのはすごく強い繋がりだと私は思う。無知の知とはよく言ったもので、知っている状態と知らない状態とでは月とスッポンの差がある。かつ、知られているという自覚はこの上ない喜びに繋がると思う。「繋がり」という言葉がしきりに出てきたが、「繋がっている」ということは「知られている」と同義ではないかと今思った。
知られている恐怖はあれど繋がりは感じる。忘れられるとか知られていない状態とかほぼ無に近い状態では繋がりも無である。「あなたのことは納得できない(つまり私の正しさの範疇にはない)けどあなたの存在は知ってるよ」と言われることは繋がりには結びつかないのか。朝井氏に聞いてみたいところではある。
母がしきりに感想としてSNSを出していたし、やっぱりやりたくないと思ったと言っていたが、なぜこの本を読んで第一にそれが浮かぶのかがわからなかった。なので話してみたいところではある。が、ちょっと考えてみたい。SNSを忌避するのは、恐らく母親の目線だからだろうなと考えた。彼女は私の母親である。例えば私が、作中登場する泰希くんのように学校にも行かずYouTuberとなり性的搾取の対象と密かになっていたのなら彼女は憤慨するやもしれない。知らない。が、だからこそ「SNSはもしあなたが小さかったらやらせてなかったと思う」という発言につながるのだろう。もう善悪の分別がつく年齢に私がなっているからこそそう話してくれたのだと今は思う。しかし、この本の主題はそれではないのではないか。タイトルに「正欲」とあるだけあって、やはり多様性の話だと私は思う。(それももしかしたら正しくあれという欲の元生まれる思考なのかもしれないが。)
結局、「多様性」は沼である。私が想像できる範疇を優に超えている上に、これから先理解できそうにもない。もはや海原にそびえる水平線を追いかけているかのような気分になる。端的にいえば途方もない。というのを尊重しようと言っているのだからやはり人間は滑稽だ。お前らはAIにでもなるんか?と。自分たちが知らないものは怖いし受け入れ難い。やっぱり知らないは無なのだ。異常なのだ。(だから幽霊が怖いんだろうなとふと思うわけだが。)知らないものは排除しよう、知らないから知らないまま触れないで放置しよう、パンドラの箱だ、開けてはいけない、いらないから捨てる、考えない、逃げる、秩序を乱す巨悪の根源だと攻め立てる…。知らないから。襲ってきそうだから。自分たちの安寧を壊すかもしれないから。幾万の可能性を抱く知らない何かと関わりたくないから。私が知らない何かはあなたも知らないよね?あなたも怖いよね?一緒に捨てよ!せーの!…。
群衆とはそういうものなのだろう。時が経てば形を変えて波となる。まるで水のようだ。朝井氏が少数派のフェチとして水フェチを挙げたのはそんなところからなのかとも考えてしまう。「知らない」という波が大きくなればなるほどそれは正義という名前に変わり、そしてルールとなる。それが社会なんだな、と思う。そういう意味では「社会不適合者」という言葉の便利さに辟易する。
まあとはいえ、人間として体裁を保っていきたいならやはり社会性は必要不可欠であり、それが秩序という名前で、法律という名前である。もしかしたらモラルという名前かもしれないし暗黙の了解かもしれない。我々は動物ではないからそこが大変なんだ。だから、私は不登校の人を見ると辟易する。なぜ社会からあえて逃げるのだ、と。義務教育はちゃんと行くべきである。なぜか。それは「社会がとんでもなく苦しいものである」とちゃんと知れるからだ。義務教育後は好きにすればいい。フリースクールに通うもよし働くもよし。何せ私の父親は中卒が最終学歴である。そんな父は何も社会不適合者ではない。学がないわけでもない。むしろ賢い人だ。たくさんのことを知っている。知らないことはちゃんと知らないという。知らない自分が嫌だという自覚も持っているらしい(らしいというのは私が勝手に考えているだけであるが故)。
話が逸れすぎているので戻そう。なんとなく自分の考えがクリアになってきたところで、一つの結論を出そう。多様性は一生知り得ないし理解できないが知ることを諦めてはいけない。そしてそれが協調性であり人間として人間の社会を生きるということ。そしてそれが明日死なないための術なのだということ。明日確実に生きるために自分なり他人なりを知る。わかりはしないさ、絶対に。自分探しなんて到底終わりは来ない。誰も正解を教えてくれやしないしましてやヒントなんて与えてくれない。最もらしい言葉を並べて正しさを強要してくるだけである。それはお前の正しさだろと一蹴するもよし、聞かぬもよし。だが、それを知ることを拒絶してはならない。お前の意見だろとシャッターを閉めれば自分が生きていく枷をも失う。そうなれば死ねばいい。死ぬことも一つの手段である。死ぬという手段の先にある目的とは何か。そんなものわかりやしない。何のために生きて何のために死ぬのかなんて知らないし分かりたくもないが、ただただ生にしがみつきたい。この生を堪能したい。だからこそ知ることを諦めてはいけないのだ。右から左に流したっていい。それは違うと怒ったっていい。何にせよ、社会を知り何かしら考えることだ。考えて考えて考えた結果自分はどうしたいのか。まるでプレゼンバトルの原稿のようで甚だ嫌気がさす。それほどまでに囚われているので早く逃れたい。と、思いながら書く深夜(もはや早朝)5時。

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